別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2011年12月3日土曜日

鶴岡八幡宮の五重塔


 鶴岡八幡宮


1189年(文治5年)、源頼朝は亡母由良御前の供養のため、また、鶴岡八幡宮の伽藍を整備するために塔を建て始めます。

『吾妻鏡』には、3月13日に「塔の九輪」を上げたことが記されています。

この塔は、五重塔であったと考えられているようです。


 鶴岡八幡宮


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

~五重塔の供養~

五重塔は、5月8日には朱色に塗られ、19日には五重塔の供養の日を6月9日と決めました。

ところが・・・

5月22日、奥州から伝令が到着し、閏4月30日に源義経が自刃したことが伝えられます。

すぐに「穢れが生じた」という理由で、「供養の日を遅らせる」旨を京都へ報告するのですが・・・

事は次々に進んでいってしまいます。


5月25日、新藤中納言兼光が起草し、堀河大納言忠親が清書した供養の願文が到着。

6月3日、天台座主全玄の代官中納言法橋観性が供養の導師として到着。

そして、6月5日、大江公朝が後白河法皇の使者として到着。

翌日早朝には、後白河法皇から下された品が幕府に届けられます。


供養の日を遅らせたいと考えていた頼朝でしたが、こういう状況ですので、6月7日には、予定どおりに供養の式典を行うことを決めています。

義経の死から30日が経過しているので、「直接内陣に入らなければ問題ない」ということになったからだといいます。

ただし、義経の首は鎌倉に入っては困るので、運び入れるのを延期させています。

(参考:治承・寿永の乱の英雄源義経


こうして、6月9日に五重塔の供養が行われました。

供養の導師は法橋観性、呪願師は別当円暁(「呪願」(じゅがん)とは、施主の願いを述べること。)。

頼朝も出席しますが、宮寺に近づくのは遠慮して、馬場に桟敷をつくって供養を見守ったということです。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

~建久2年の大火~
鶴岡八幡宮の炎上

1191年(建久2年)3月4日未明、小町大路で火災が発生します。

そして、火の粉が五重塔に移り、鶴岡八幡宮は灰燼と帰してしまいます。

その後すぐに鶴岡八幡宮は再建され、11月21日には「遷宮の儀」が執り行われています。

(参考:御鎮座記念祭

ただ、五重塔の再建には至らなかったようです。

(参考:建久2年の鎌倉大火・・・鶴岡八幡宮が灰燼と化す


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

~五重塔の再建計画と中止~

五重塔は、二代将軍源頼家のときに再建の計画がありました。

『吾妻鏡』には、1203年(建仁3年)2月11日、「地曳始の儀」が執り行われたことが記されています。

しかし、12月3日、北条政子がこの建設を中止します。

その理由は・・・

「建久2年の大火では、五重塔に火が移り鶴岡八幡宮境内の火災のもととなったこと」

及び

「再建にとりかかった頼家が病に倒れたこと」

だったそうです。

だから・・・不吉なのだそうです。


参考までに・・・

政子が建設を中止したとき頼家修禅寺に幽閉されています。

そして、翌年には暗殺されてしまいます。



 源頼朝の五重塔


 鶴岡八幡宮







☆ ☆ ☆ ☆ ☆


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