別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




okadoのブログは、『中世歴史めぐりyoritomo-japan』の別冊。
京都・奈良・平泉・鎌倉などの寺社・歴史・人物・伝説・文化・自然・花などの情報をお伝えします。


2010年12月16日木曜日

平等寺~源頼朝が祈願した真言宗の古刹:平塚市~

平等寺は真言宗東寺派の古刹で、1192年(建久3年)、源頼朝が妻政子の安産祈願をしたことで知られています。


平等寺
1192年(建久3年)8月9日、早朝から政子が産気づいたため、
頼朝鶴岡八幡宮と相模国の27ヶ所の神社仏閣に神馬を奉納し、
御産加持を命じました。
このとき、生まれた子がのちの三代将軍源実朝です。





政子安産の祈願所(鎌倉手帳)
https://www.yoritomo-japan.com/anzan.htm
鎌倉手帳
https://www.yoritomo-japan.com/kamakura.html

貴船神社~源頼朝が祈願した「泣き荒神」:平塚市城所~

貴船神社には、源頼朝が祈願したという三面大荒神が祀られています。

頼朝は、1192年(建久3年)、妻政子の安産祈願のために、この地にあった常蘇寺に神馬を奉納し、祈祷を命じます。

しかし、生まれた子が夜泣きをするので、観音堂に祀られていた三面荒神に祈願すると夜泣きが止んだと伝えられています。


 貴船神社

平安後期から鎌倉、南北朝時代と、約200年に亘ってこの地を治めた、城所氏の鎮守として創建されたと伝えられています。


 貴船神社


1192年(建久3年)、源頼朝は、妻政子の安産祈願のため、貴船神社境内にあった常蘇寺に祈祷を命じます。

無事に生まれた子がのちの三代将軍源実朝です。

📎政子安産の祈願所


 三面荒神


荒神さまは、常蘇寺の観音堂に祀られていたといいます。

別名を「泣き荒神」といいます。

源頼朝は、生まれた子が夜泣きをするので、この荒神さまに祈願したところ、夜泣きが止んだと伝えられています。


 貴船神社


三面大荒神社の前に置かれた牛の石像は、日露戦争のときに牛を奉納した記念に建立したものなのだそうです。

平塚市のホームページ「ひかつか図鑑」によると・・・

牛は関東大震災後に行方不明になり、翌年から村に疫病が流行しました。

捜しても見つからないので、おきぬさんという祈祷師に見てもらうと、お告げのあった場所から牛が掘り出され、三面大荒神に納めました。

すると、疫病はピタリと止んだといいます。

このように、牛の石像にはあらたかな霊性が込められています。


貴船神社の裏からは美しい大山が望めます。


~城所城の跡~

浄心寺

貴船神社の近くにある曹洞宗の寺です。

この寺の背後に城所城があったと伝わっています。





 歴史めぐり源頼朝


 鎌倉手帳



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2010年12月14日火曜日

平家の滅亡


1184年(寿永3年)1月、源頼朝は正式に平氏追討の勅命を受けます。

一方、都落ちをした平家一門は、一時、九州太宰府まで落ちのびますが、徐々に勢力を盛り返し、かつて平清盛が夢みた都「福原」まで東進していました。


~後白河法皇の使者~

2月6日、福原で平清盛の三回忌の法要を営んでいた平家のもとへ、後白河法皇の近臣の使者が文書を携えて到着します。

文書には、

「和平交渉のための使者が8日に京を出て下向するから、武力行動をしないように」

という内容のものだったといいます。

平家方はこれを信じていたのですが、翌7日には源氏の総攻撃が開始されたといいます。


~一ノ谷の合戦~

生田ノ森からは源範頼が、一ノ谷からは安田義定が、そして、背後の山からは源義経が攻撃を仕掛けたことでは平家軍は大混乱となり、

多くの大将が討ち取られ、平重衡が生け捕りにされました。

討ち取られた大将の中には、16歳の平敦盛もいました。

これが、有名な「一ノ谷の合戦」です。

この合戦は、源義経「鵯越の奇襲攻撃」が中心に語られがちですが、合戦そのものが奇襲であり、悪く言えば「騙し討ち」であったと考えられます。

一ノ谷の合戦後、武士の横領・狼藉の禁止令の発布と、その実行を頼朝が行う旨の勅令が出されます。これによって、頼朝は全国の武士の頂点に立ちます。


~平氏滅亡~

一ノ谷の合戦で敗れた平氏は、屋島にのがれていました。

当初、頼朝義経を起用して平家を攻めようと考えていましたが、このころから後白河法皇の義経登用が目立つようになり、

ついに義経は、頼朝の許しなく検非違使に任官してしまいます。

怒った頼朝は、義経を解任して、範頼を総大将として西上させることとしました。
(この対応には諸説あるようです。)

9月に京を発った範頼の東国軍は、兵糧の調達に苦労しながら、翌年正月になって長門国に到達しています。

しかし、士気は衰え、侍所別当の和田義盛が「関東に帰りたい」などと言う始末であったといいます。

こうした状況の中で頼朝は、再び義経を起用することにします。

1185年(元暦2年)2月17日、義経は風雨のなか出帆して阿波国に渡り、19日の朝には讃岐国の屋島を襲撃します。

陸上からの攻撃を予想していなかった平家軍は不意をつかれ海上にのがれました。

義経は熊野別当湛増などの水軍を味方に引き入れ、平家を追いつめ、3月24日、ついに長門国の壇ノ浦で全滅させました。


義経が着用したという赤糸威胴丸鎧



一ノ谷の戦い

屋島の戦い

壇ノ浦の戦い
源義経






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特集!「鎌倉殿の13人」伊豆国編

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歴史めぐり源頼朝


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本格的に動き始めた鎌倉の歴史

=平清盛の死と飢饉=

1181年(治承5年)、平清盛が高熱におかされて64歳で亡くなります。

清盛の死によって平氏の力は弱まりますが、西国を襲った大飢饉も平氏の勢力を削ぐことになります。

平清盛像
(六波羅蜜寺)

(1180年(治承4年)の異常気象の影響によって、翌年に起こった大飢饉は、翌々年にも波及します。

頼朝の挙兵(1180年)からの数年間が休戦状態となっていますが、この飢饉の影響が大きく、兵を動かすことなどできる状況にはありませんでした。)

まだ、東国の地盤整備が済んでいなかった頼朝にとっては、これらの出来事はまことに好都合で、鎌倉から動かずに済み、急がねばならなかった東国の強化に全力を尽くすことができました。


当時の飢饉の様子(餓鬼草子)


=にわかに激しくなる天下の情勢=


~志田義広の反抗~

1183年(寿永2年)に入ると、安定していた情勢も動き始めました。

2月、頼朝の叔父にあたる志田義広が頼朝に反抗しますが、失敗に終わっています。

義広は常陸国で勢力をふるい、一時は、あなどりがたい勢力となっていました。

この叔父の反乱を鎌倉殿頼朝が鎮圧したことは、鎌倉の新政権の力を関東一帯に知らしめることになり、その勢力が強化されるきっかけとなったといいます。


~木曽義仲との対立~

頼朝の従兄弟木曽義仲は、頼朝と相前後して挙兵し、1183年(寿永2年)には、信濃、上野、越後、越前をその勢力下に入れていました。

以前より、上野の支配については、頼朝の支配圏との関係で衝突があったのですが、1183年(寿永2年)、頼朝と義仲の関係は急激に悪化します。


頼朝と義仲の対立の原因として・・・

頼朝に反抗した志田義広が木曽義仲のもとに逃げ込み、これを義仲が匿ったため。

◎甲斐の武田信光が縁組みを断られた腹いせに「義仲が頼朝を討とうとしている」と密告したため。

頼朝が追放した源行家(頼朝の叔父)を義仲が匿ったため。

などがあげられています。


両者の対立は、あわや合戦というところまでになりますが、義仲が長男を頼朝のもとへ人質に出すことで和議が成立します。

この人質というのが、頼朝の娘大姫と結婚したという清水冠者義高です。

当時義高が11歳、大姫は6歳くらいだったといいます。このことが、のちの大姫に悲劇に繋がっていきます(参考:岩船地蔵堂)。


~平氏の都落ち~

1183年(寿永2年)春、平氏は北陸の義仲を攻めます。

しかし、義仲は叔父の義広、行家とともにこれを迎え撃ち、5月11日、倶利伽羅峠の夜戦で平氏軍を潰滅させます。

勢いに乗った義仲は、北陸道を攻め上り、6月には近江国に入ります。近国の反平氏勢力らの動きも活発になり、京の平氏包囲網が巡らされました。

7月25日、耐えきれなくなった平氏は、6歳の安徳天皇と三種の神器を奉じて六波羅に火をかけ、京の都をあとにします。

そして、平氏に入れ替わって、義仲らが都に入ります。


~義仲の失敗~

飢饉によって食料が不足している都に、義仲らの大量の軍勢が入ったことで、徴発・掠奪・暴行・青田刈りが頻発・横行するようになります。

そのため、都の人心は義仲から離れていきます。さらに、義仲は、皇位継承問題に介入したため、後白河法皇とも対立するようになります。

そもそも、義仲の軍は、寄せ集めの軍隊であって、何の統制もとれていなかったといいます。

義仲自身も統制できるだけの知識・教養に欠けていたものと考えられます。


~寿永二年十月宣旨~

このような中、後白河法皇は頼朝に上京をうながします。

しかし、頼朝は、奥州藤原秀衡の脅威と畿内の飢饉を理由に断り続けました。

同時に、「東海・東山・北陸三道の国衙領・荘園をもとのように国司・本所に返還せよ」という勅令発布を要請しています。


そして、1183年(寿永2年)10月、

「東海・東山両道の国衙領・荘園の年貢は国司・本所のもとに進上せよ。従わぬ場合は頼朝に連絡して命令を実行させよ。」

という内容の宣旨が交付されました。


これが「寿永二年十月宣旨」です。

この宣旨によって、東国における頼朝の支配権が承認され、同時に従五位下の位に復帰した頼朝は、このときに「朝敵」の汚名からのがれることになります。

(これまで、頼朝は「養和」及び「寿永」の年号を使用してきませんでしたが、十月宣旨の発布によって、「寿永」の年号を使い始めています。)


~義仲の最期~

十月宣旨を受けた頼朝は、弟義経を京に使わします。

東海道を進んだ一行は、頼朝が東国の支配権を得たことを宣伝しつつ近江まで進軍します。

一方、都の義仲は、11月、法皇の法住寺殿の焼き討ちを決行し、翌年1月には征夷大将軍に任命させますが、

まもなく、義経と兄範頼らが率いる東国軍が京を攻撃し、義仲軍は宇治川の戦いや瀬田の戦いで惨敗し、北陸へ逃げる途中で討ち取られました。


~上総介広常の暗殺~

十月宣旨のあった1183年(寿永2年)末、頼朝梶原景時に命じて、上総介広常を暗殺させました。

以前よりの頼朝に対する無礼が原因ともいえますが、最大の原因は、朝廷との交渉を進める頼朝に対して「常に不満を語っていたため」と考えられます。

のちに頼朝は、「広常は最大の功臣の一人だったが、天皇に対し謀叛心を持っていたので殺した」と述べています。


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鷹取山の散策~神武寺から磨崖仏~

逗子市と横須賀市の境にある鷹取山は、標高140メートル余りの山で凝灰岩の石切場でした。

そのむかし、戦国武将の太田道灌が鷹狩りをしたので「鷹取と名づけられた」という伝説がのこされています。 


神武寺の薬師堂から鷹取山に向かいます。

薬師堂の左側にはこんな案内があります。

この道を上ってから尾根道を歩きます。

尾根道のあちらこちらにこのように大きな岩があります。
岩と岩の間をすり抜けます。

名越切通にも似た道です。

ハイキングコースとなっていますが、
かなり険しい崖もありますので注意が必要です。

時々見える景色はこんな感じです。
晴れていれば・・・

この岩の背後は垂直に切られた壁でした。


石切の跡です。
鷹取山は、かつては凝灰岩の石切場でした。
しかし、関東大震災によって多くの犠牲者を出し、
運搬に利用していた鷹取川も隆起して使えなくなったことなどが原因で、
石切が廃れていきました。
戦後、登山の練習用の崖として人気を集めます。
(岩肌の無数の穴は、登山練習のために打ち込まれたハーケンの跡です。)

鷹取山は、群馬県の妙義山に似ていることから、
「湘南妙義」と呼ばれています。
(ロッククライミングをする人がいました。)

横浜横須賀道路が下を走ります。


~石切跡の崖を見ながら磨崖仏を目指します~











~鷹取山の磨崖仏~

弥勒菩薩尊像
この磨崖仏は、逗子市の川口満氏の依頼によって、
横須賀市の彫刻家藤島茂氏が昭和40年に製作したものだそうです。


しかし、見事なまでの岩の切り方です。


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