別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




okadoのブログは、『中世歴史めぐりyoritomo-japan』の別冊。
京都・奈良・平泉・鎌倉などの寺社・歴史・人物・伝説・文化・自然・花などの情報をお伝えします。


2024年9月9日月曜日

曲水の宴~平安貴族の遊興~




曲水の宴(きょくすいのえん)は、3月上巳の日(のちに3月3日)に行われていた宮中行事。

旧暦の3月は現在の4月上旬から中旬。

桜のシーズンでもあることから花見の宴を兼ねて行われる事もあったようです。


平安時代中期の摂関時代には内裏の公式行事となり、藤原道長や藤原師通なども自邸で行うようになりますが、中世以降は断絶。

現在、各地で行われている曲水の宴は、近代になって始められたもので、太宰府天満宮・上賀茂神社赤間神宮毛越寺城南宮などで再興されています。



曲水の宴



紫式部・源氏物語・光源氏ゆかりの地めぐり~光る君へ~









☆ ☆ ☆ ☆ ☆


紫式部


源氏物語

光源氏


紫式部と越前国


紫式部の越前下向


紫式部の京都

琵琶湖で紫式部・源氏物語

平安宮 源氏物語ゆかりの地

源氏物語 須磨・明石

宇治十帖


紫式部年表


藤原道長

藤原彰子


清少納言


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鎌倉検定過去問~千葉常胤の進言~


『吾妻鏡』によると、源氏ゆかりの地鎌倉を根拠地とするように源頼朝に進言したとされる人物はだれか。



1180年(治承4年)8月24日、石橋山の戦いに敗れた源頼朝は、一時、箱根権現に身を寄せますが、8月28日、真鶴から船出して安房国へ渡ります。

参陣を命じられた千葉常胤は、9月9日、鎌倉を本拠とするよう進言したのだと伝えられています。



(鋸南町:竜島海岸)

真鶴から船出した頼朝は、8月29日、安房国の平北郡猟島に上陸。

平北郡猟島は、現在の鋸南町竜島辺りと考えられています。





千葉常胤は下総国の武将。

亥鼻城を本拠としていました。


『北条九代記』によると・・・

作戦会議中に常胤が頼朝に申し上げたことは、

「今の御軍陣は敵の攻撃を防ぐのに適当な土地ではありません。

相模国の鎌倉こそ先祖が残されたすぐれた遺跡であって、地形は堅固で敵を防ぐのに適しています。

陸からの配備も、海上路としても、四方の国郡に達するのに便利です。

兵たちを集めるのにも、軍事用の食糧を運ぶのも思いのままです」


これに加えて

「鎌倉の地名は大織冠藤原鎌足の伝説に由来していること」

「鎌足の玄孫染屋時忠が鎌倉に居住して関東八か国の追捕使を勤めていたこと」

「平貞盛の孫平直方は、源頼義に娘を娶らせ、八幡太郎義家が誕生すると、鎌倉の地を義家に譲り、以来、鎌倉は源家重代の領有地となったこと」

を申し上げ、

最後に

「将来の幸運をこの世にもたらし、先祖の名を雲の上にまで響かそうとするには、この鎌倉がまことにめでたくすばらしい土地柄です」

と申し上げたのだとか。




鎌倉検定


源頼朝挙兵


石橋山の戦い


千葉常胤






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源頼朝鎌倉入り


歴史めぐり源頼朝


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2024年9月7日土曜日

鎌倉検定過去問~日蓮の龍ノ口法難~


(問)「ぼたもち寺」の呼び名で親しまれる常栄寺に伝わる話で、桟敷の嫗にゴマの餅を捧げられ、龍ノ口の法難で奇跡により処刑を免れた僧侶はだれか。



1271年(文永8年)9月12日、日蓮は、幕府や諸宗を批判したことで、平頼綱(北条時宗の執事)によって捕えられ、龍ノ口刑場へと護送されます(龍ノ口法難)。


常栄寺

大町の常栄寺は、裸馬に乗せられて龍ノ口刑場へ護送される日蓮に、桟敷の尼が「胡麻入りのぼた餅」を捧げたという言い伝えから、「ぼたもち寺」と呼ばれています。



法源寺

腰越の法源寺も「ぼたもち寺」と呼ばれています。

桟敷の尼の実家の菩提寺なのだとか。




処刑されるため龍ノ口刑場に護送された日蓮は、その時に起こった怪異現象によって救われたのだと伝えられています。

その後、佐渡への流罪となりました。


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(問)開山の日朗が幽閉された土牢と『土牢御書』の石碑が、裏山に今も残されている寺院はどこか。

(問)光則寺の開山は、日蓮の弟子〔 ① 〕で、裏山には〔 ① 〕が幽閉された土牢が残り、傍らには佐渡流罪前夜、日蓮が〔 ① 〕に送った手紙〔 ② 〕の石碑もある。



龍ノ口法難では、弟子の日朗も捕らえられ、宿谷光則邸(現在の光則寺)の土牢に幽閉されました。


日朗の土牢

日蓮が日朗に送った『土牢御書』には、牢を出たら佐渡に遊びに来るように書かれていて、日朗は、日蓮の佐渡流罪中、8度にわたって佐渡を訪れたのだといいます。



光則寺

日蓮が赦免された1274年(文永11年)、日朗の監視役をしていた宿谷光則は自邸を寺としました。

それが光則寺

開山は日朗。

宿谷光則は、弟子の身を案ずる日蓮に感動して帰依したのだと伝えられています。




鎌倉検定


ぼたもち供養:龍口寺

ぼたもち供養:常栄寺








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甘縄神明神社例大祭


鶴岡八幡宮例大祭


御霊神社例大祭


お十夜


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木曽義仲挙兵!~市原合戦~


(長野県木曽町)

木曽義仲源義賢の次男。

1154年(久寿元年)、武蔵国比企郡の大蔵館で誕生します。

しかし、翌年、父の義賢が源義朝の長男・義平頼朝の異母兄)に滅ぼされると、幼い義仲は、乳母夫の中原兼遠に連れられ、信州の木曽で育てられます。

旗挙八幡宮は、木曽で育った木曽義仲が京都の石清水八幡宮を勧請して建立したという神社。



神社周辺が義仲の館だったのだと伝えられています。

木曽で成人した義仲には、平家を征伐して家を興したいという考えがあったようです。



(木曽町:義仲館)


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1180年(治承4年)4月、以仁王の平家打倒の令旨が発せられると、8月には源頼朝挙兵

義仲はすぐに参陣しようと思ったようですが・・・

9月7日、小笠原頼直が義仲討伐のため木曽侵攻を企てます。

それを察した村山義直と栗田寺別当・大法師範覚が出陣し、信濃国市原で合戦が始まりました。

合戦は日暮れまで続きますが、村山義直の矢が尽きてしまいます。

村山義直からの援軍要請を受けた義仲は、大軍を率いて助勢に駆けつけます。

その威勢に怖れをなした小笠原頼直は、城長茂を頼って越後国へ逃げて行ったのだといいます。

※この合戦が史料でみることのできる義仲が関与した最初の戦いです。





木曽義仲

木曽義高

巴御前

今井兼平


宇治川の戦い


木曽義高の誅殺







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源頼朝挙兵


源頼朝鎌倉入り



歴史めぐり源頼朝


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