別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




okadoのブログは、『中世歴史めぐりyoritomo-japan』の別冊。
京都・奈良・平泉・鎌倉などの寺社・歴史・人物・伝説・文化・自然・花などの情報をお伝えします。


2024年10月29日火曜日

賢子が連れてきた双寿丸のモデルは藤原兼隆?~光る君へ~


大河ドラマ「光る君へ」では、双寿丸という男が紫式部の娘・賢子と恋仲になるような気配ですが・・・

双寿丸は平為賢の従者で、賢子を盗人から救ったことで、屋敷に出入りするようになります。

実在した人物ではないようですが、どういう人物をモデルに描かれているのでしょうか?


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


平為賢は1019年(寛仁3年)の刀伊の入寇で活躍した武者。

妻は高階成順の娘(大姫御前と呼ばれていたらしい。)。

高階氏といえば、藤原伊周隆家兄弟の母貴子がいますが、成順は貴子の兄弟・明順の子。

つまり大姫御前は貴子の姪孫(てっそん・甥の子)にあたります。

そして、為賢が活躍した刀伊の入寇の総指揮官は隆家


賢子は1017年(長和6年)頃から、皇太后・藤原彰子のもとに出仕します。

そして、藤原道兼の次男・兼隆と結婚します。

兼隆は貴子の義甥(ぎせい・義兄弟の子)。


高階貴子つながりからすると、双寿丸は藤原兼隆をモデルとしているのかも。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


賢子は恋多き女性だったといわれ、藤原道長の次男・頼宗、藤原公任の長男・定頼とも交際していたといわれています。

そして、高階成章とも結婚しています。

成章は貴子の従甥(じゅうせい・従兄弟の子)。

ただ、結婚したのは、1025年(万寿2年)に賢子後冷泉天皇の乳母に任ぜられた後で、1037年(長暦元年)頃といわれているので、少し無理があるのかもじれません。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

参考までに、平為賢は常陸国筑波郡多気を拠点としていた平維幹(多気氏の祖)の四男。

『宇治拾遺物語』によると、妻の大姫御前は、維幹が上洛した時に盗み、常陸国へ連れ帰った娘なのだとか。




紫式部


藤原道長

藤原彰子









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源氏物語

光源氏


紫式部の京都

平安宮 源氏物語ゆかりの地

琵琶湖で紫式部・源氏物語

源氏物語 須磨・明石

宇治十帖


紫式部年表


紫式部・源氏物語・光源氏ゆかりの地めぐり~光る君へ~


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皇太后彰子の御所となった枇杷殿


京都御苑:枇杷殿跡
(京都御苑)


枇杷殿は、藤原道長の次女・藤原妍子の里邸として整備された御殿。

一条天皇の里内裏・一条院が焼失した際には、 一条天皇が中宮・藤原彰子らとともに遷御したこともありました。

1011年(寛弘8年)、一条天皇が崩御。

中宮彰子枇杷殿に遷御して御所とします。

彰子に仕えていた紫式部も枇杷殿へ出仕することとなります。


ありし世は
夢に見なして
涙さへ
とまらぬ宿ぞ
悲しかりける



この歌は、彰子が一条院から枇杷殿に遷るこことなった時に紫式部が詠んだ歌。

「帝がおいでになった時代が夢だったと思うと涙がとまらない。

思い出のある御所に留まることを許されず、移らなければならないのは悲しいことです」




紫式部


藤原道長

藤原彰子









☆ ☆ ☆ ☆ ☆


源氏物語

光源氏


紫式部の京都

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2024年10月28日月曜日

光源氏と敦明親王がなった准太上天皇と源氏物語


『源氏物語』光源氏藤壺の不義の子として登場する冷泉帝は、光源氏を「太上天皇になずらふ御位」としました。

「太上天皇になずらふ御位」とは、太上天皇(上皇)に准じた待遇ということ。

「准太上天皇」とも呼ばれます。

では、歴史上で准太上天皇となった人物はいるのか?

1017年(寛仁元年)に三条天皇の第一皇子・敦明親王がなっているようです。

紫式部敦明親王の准太上天皇を参考に光源氏の准太上天皇を書いたとも考えられますが・・・

『源氏物語』は1017年にまだ完成していなかったのでしょうか?

『紫式部日記』によると、1008年(寛弘5年)に藤原彰子『源氏物語』と思われる冊子を作って一条天皇に献上しているので、1008年には大部分が完成していたのかと・・・

ということは、敦明親王の准太上天皇は『源氏物語』を参考にしたのかも。

※1017年に紫式部が生存していたかどうかも不明です。




紫式部


藤原道長

藤原彰子









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源氏物語

光源氏


紫式部の京都

平安宮 源氏物語ゆかりの地

琵琶湖で紫式部・源氏物語

源氏物語 須磨・明石

宇治十帖


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2024年10月26日土曜日

2025年(令和7年)は巳年、鎌倉で巳といえば銭洗弁財天




巳は蛇。

蛇は弁財天の使い。

巳の日に、お金に関する願いごとをすると、蛇が弁財天に願いを届けてくれる。



☆ ☆ ☆ ☆ ☆


銭洗弁財天宇賀福神社は、源頼朝が巳の年の巳の月の巳の日に宇賀福神から受けたお告げによって建立されたと伝えられています。

五代執権北条時頼は、巳成金(みなるかね)の日に参拝して銭を洗うことを推奨しました。

巳成金の日は、60日に一度巡ってくる弁財天の縁日。


そして、いつのころからか・・・

霊水(銭洗水)で銭を洗うと数倍になるという信仰が生まれます。

洗った銭は持っているのではなく使う事によって「数倍になって返ってくる」のだとか。


2025年初巳の日は1月12日。

巳の刻(午前10時)から初巳祭が執り行われます。









初巳祭








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鎌倉初詣特集


鎌倉新年のイベント


新年を迎える前に
鎌倉の紅葉



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2024年10月24日木曜日

鎌倉検定過去問~奈良仏師~


雪ノ下の大御堂にあった〔   〕は、〔   〕が父親の供養のために創建、奈良から仏師〔   〕を招いて、黄金の〔   〕像を造らせて安置し、盛大な儀式を行ったと伝えられる。



勝長寿院跡

1185年(文治元年)、源頼朝は父義朝の菩提を弔うために勝長寿院を建立します。

後白河法皇から送られた義朝と義朝に仕えた鎌田政長(政清・政家)の首が葬られました。

本堂(阿弥陀堂)には宅間(藤原)為久によって「浄土瑞相二十五菩薩像」(壁画)が描かれ、本尊は奈良仏師の成朝が造仏しています。

1219年(承久元年)には、北条政子源実朝の冥福を祈るため五仏堂を建立し、運慶の五大尊像が安置されています。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


鎌倉検定では、勝長寿院の阿弥陀仏や圓應寺閻魔大王を造仏した仏師を定朝・成朝・運慶・快慶の中から選択させる問題がよく出されています。

定朝は藤原道長の時代に活躍した仏師。

道長の法成寺の造仏を担当し、平等院鳳凰堂の阿弥陀如来を造立しています。

そして、奈良仏師は定朝の孫頼助を始祖としています。

頼助は興福寺を拠点に活動し、康助→康朝→成朝と父から子へ受け継がれていきました。

しかし、成朝没後に正系は途絶え、傍系の康慶、運慶らの慶派に受け継がれていくことになります(※康慶は成朝の父康朝の弟子。)。

快慶も慶派の仏師です。

頼朝が成朝に造仏を依頼したことで、東国と奈良仏師の関係が開かれ、北条時政願成就院の諸仏制作を、和田義盛浄楽寺の諸仏制作を運慶に依頼しています。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆



1180年(治承4年)、南都(奈良)は平清盛の命を受けた平重衡によって焼かれ(南都焼討)、興福寺東大寺が灰燼に帰しました。

興福寺復興にあたって成朝は、東金堂と食堂の造仏を任されたようです。

『吾妻鏡』によると、

1185年(元暦2年)、勝長寿院の本尊造仏のため鎌倉に下向した成朝ですが、その頃は東金堂の造仏にあたっていたようです。

しかし、勝長寿院の阿弥陀仏が完成した後も鎌倉に留まっていたたため、奈良大仏師の地位が他派に脅かされることとなっていたようです。

翌年3月2日、成朝は頼朝興福寺の造仏を他の仏師にやめさせるようにと訴え、頼朝は成朝を擁護する書状を京都に出しています。

ただ、食堂の本尊を成朝が造立したという記録はなく、東金堂の薬師三尊像は1187年(文治3年)に飛鳥山田寺から奪取したものが充てられているようです。

参考までに、運慶の父康慶は南円堂の造仏を任されています。

南円堂の不空羂索観音菩薩像・法相六祖坐像・四天王立像は康慶とその弟子によって造立されたもので国宝に指定されています。

そして運慶は、北円堂の造仏を任されています。

北円堂の本尊木造弥勒菩薩坐像、木造無著・世親菩薩立像は、運慶らによって造立されたもので国宝。

中金堂の四天王像は、北円堂に安置されていた運慶作の像ではないかと考えられています(国宝)。





鎌倉検定


運慶










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2024年10月19日から
鎌倉の伝運慶仏

2024年10月26日から
運慶展


2025年9月9日から
運慶 祈りの空間


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