雪ノ下の大御堂にあった〔 〕は、〔 〕が父親の供養のために創建、奈良から仏師〔 〕を招いて、黄金の〔 〕像を造らせて安置し、盛大な儀式を行ったと伝えられる。
1185年(文治元年)、
源頼朝は父
義朝の菩提を弔うために
勝長寿院を建立します。
後白河法皇から送られた
義朝と義朝に仕えた鎌田政長(政清・政家)の首が葬られました。
本堂(阿弥陀堂)には宅間(藤原)為久によって「浄土瑞相二十五菩薩像」(壁画)が描かれ、本尊は奈良仏師の成朝が造仏しています。
1219年(承久元年)には、
北条政子が
源実朝の冥福を祈るため五仏堂を建立し、
運慶の五大尊像が安置されています。
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鎌倉検定では、
勝長寿院の阿弥陀仏や
圓應寺の
閻魔大王を造仏した仏師を定朝・成朝・運慶・快慶の中から選択させる問題がよく出されています。
定朝は
藤原道長の時代に活躍した仏師。
道長の
法成寺の造仏を担当し、
平等院鳳凰堂の阿弥陀如来を造立しています。
そして、奈良仏師は定朝の孫頼助を始祖としています。
頼助は
興福寺を拠点に活動し、康助→康朝→成朝と父から子へ受け継がれていきました。
しかし、成朝没後に正系は途絶え、傍系の康慶、
運慶らの慶派に受け継がれていくことになります(※康慶は成朝の父康朝の弟子。)。
快慶も慶派の仏師です。
頼朝が成朝に造仏を依頼したことで、東国と奈良仏師の関係が開かれ、
北条時政は
願成就院の諸仏制作を、
和田義盛も
浄楽寺の諸仏制作を運慶に依頼しています。
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1180年(治承4年)、南都(奈良)は
平清盛の命を受けた
平重衡によって焼かれ(
南都焼討)、
興福寺と
東大寺が灰燼に帰しました。
興福寺復興にあたって成朝は、
東金堂と食堂の造仏を任されたようです。
『吾妻鏡』によると、
1185年(元暦2年)、
勝長寿院の本尊造仏のため鎌倉に下向した成朝ですが、その頃は
東金堂の造仏にあたっていたようです。
しかし、勝長寿院の阿弥陀仏が完成した後も鎌倉に留まっていたたため、奈良大仏師の地位が他派に脅かされることとなっていたようです。
翌年3月2日、成朝は
頼朝に
興福寺の造仏を他の仏師にやめさせるようにと訴え、頼朝は成朝を擁護する書状を京都に出しています。
ただ、食堂の本尊を成朝が造立したという記録はなく、
東金堂の薬師三尊像は1187年(文治3年)に飛鳥山田寺から奪取したものが充てられているようです。
参考までに、
運慶の父康慶は
南円堂の造仏を任されています。
南円堂の不空羂索観音菩薩像・法相六祖坐像・四天王立像は康慶とその弟子によって造立されたもので国宝に指定されています。
そして
運慶は、
北円堂の造仏を任されています。
北円堂の本尊木造弥勒菩薩坐像、木造無著・世親菩薩立像は、
運慶らによって造立されたもので国宝。
中金堂の四天王像は、
北円堂に安置されていた
運慶作の像ではないかと考えられています(国宝)。
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2024年10月19日から
2024年10月26日から
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