別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




okadoのブログは、『中世歴史めぐりyoritomo-japan』の別冊。
京都・奈良・平泉・鎌倉などの寺社・歴史・人物・伝説・文化・自然・花などの情報をお伝えします。


2024年9月16日月曜日

藤原彰子の懐妊と藤原道長の法華三十講と紫式部


1008年(寛弘5年)初春、一条天皇の中宮・藤原彰子の懐妊が明らかになります。

『栄華物語』によると、一条天皇が懐妊に気づき、自ら藤原道長に報告したのだといいます。

ただ、懐妊が公表されたのは3月になってからのこと。

呪詛されることを恐れていたようです。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


4月13日、懐妊5か月となった彰子は土御門殿へ里下がり。

道長は4月23日から安産祈願のための「法華三十講」を催します。

法華三十講は法華経を1日に1巻ずつ講ずる法会。

そして、5月5日は三十講が最も盛り上がる5巻の講義が行われました。

当日は公卿のほとんどが参列。

紫式部は、5月5日と法華経5巻が重なった神秘的なことを歌にしています。

妙なりや
今日は五月の
五日とて
いつつの巻に
あへる御法も


📎妙なりや・・・


また、大納言の君(源廉子)との贈答では

かがり火の
影もさわがぬ
池水に
幾千代すまむ
法の光ぞ

(紫式部)

澄める池の
底まで照らす
かがり火に
まばゆきまでも
うきわが身かな

(大納言の君)

📎かがり火の・・・


翌朝にはの小少将の君が菖蒲の根を贈ってきたのだといいます。

なべて世の
うきになかるる
あやめ草
今日までかかる
ねはいかが見る

(小少将の君)

なにごとと
あやめはわかで
今日もなほ
たもとにあまる
ねこそ絶えせね

(紫式部)

5月5日は端午の節句(菖蒲の節句)。

菖蒲の長い根を贈り合う風習があったのだとか。

📎菖蒲の歌・・・


法華三十講は5月22日に結願。

『栄華物語』によると道長は毎年5月に法華三十講を催していましたが、この年は例年の倍の参列があったのだといいます。

その後、彰子は一時、内裏に戻りますが、7月16日、再び土御門殿に里下がり。

9月11日に第二皇子の敦成親王を出産しました。

📎藤原彰子の懐妊・皇子出産と紫式部と源氏物語




(源氏物語ミュージアム模型)

『源氏物語』の主人公・光源氏が建設した六条院は、土御門殿がモデルともいわれる。



☆ ☆ ☆ ☆ ☆


彰子の懐妊の一方で、藤原定子が生んだ一条天皇の第二皇女・媄子内親王が5月25日に薨去(9歳)。

発病したのは正月のことだったらしい。

正月16日には、一条天皇の命により道長が供をして清水寺に参詣しているようですが・・・

4月には昏睡状態となります。

大雲寺の文慶が平癒の祈祷を行って回復しますが、法華三十講の結願の日に重篤となってしまったようです。


参考までに、媄子内親王の病状を回復させた文慶は、一条天皇の望みで阿闍梨から権律師に昇進しています。

『源氏物語』(若紫の巻)で、光源氏紫の上が出会った北山の「なにがし寺」は、大雲寺がモデルともいわれています。




藤原道長

藤原彰子


一条天皇









☆ ☆ ☆ ☆ ☆


紫式部


源氏物語

光源氏


紫式部の京都

平安宮 源氏物語ゆかりの地

琵琶湖で紫式部・源氏物語

源氏物語 須磨・明石

宇治十帖


紫式部年表



紫式部・源氏物語・光源氏ゆかりの地めぐり~光る君へ~


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2024年9月15日日曜日

失意のうちに死去した藤原伊周~道長の暗殺計画・呪詛そして最期~


妹の藤原定子が生んだ一条天皇の第一皇子・敦康親王の立太子に望みをかけていた藤原伊周

しかし、敦康親王は藤原道長の娘で一条天皇の中宮・彰子が養母となって育てられ、道長と彰子に取り込まれてしまい、伯父である伊周は後見・養育に関わることはできませんでした。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


このような状況の中の1007年(寛弘4年)8月、道長が御嶽詣(金峯山参詣)のため都を離れます(道長の御嶽詣)。

このとき都では「伊周が平致頼を抱き込んで道長暗殺を企てている」という噂がたったのだと伝えられています。

噂の真偽は不明ですが、翌1008年(寛弘5年)正月、伊周は准大臣(大臣に准ずる待遇)となっているので道長と表だった確執はなかったようです。

ただ、この年の9月に彰子が一条天皇の第二皇子・敦成親王を出産。

甥の敦康親王の立太子に望みをかけていた伊周にとっては大きな打撃となります。

12月には敦成親王の「百日の儀」が開かれますが・・・

伊周は公卿が詠んだ和歌の序題を書こうとしていた藤原行成の筆を取り上げ、自作の和歌序を書いたのだとか。

その内容は敦成親王は第二皇子であることを強調したものでしたが、この挙動は人々から非難されることになってしまいます。


そして起こったのが、1009年(寛弘6年)正月の道長彰子敦成親王に対する呪詛事件。

犯人は伊周の叔母・高階光子と伊周の家人・源方理だったようですが、二人は官位を剝奪され、伊周は公務を停止されてしまいます。

6月には許された伊周ですが、1010年(寛弘7年)正月28日死去(37歳)。

『栄花物語』によると死因は飲水病(糖尿病)だったようです。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


1011年(寛弘8年)6月13日、病が重くなった一条天皇は居貞親王(三条天皇)に譲位、6月22日に崩御しました。

一条天皇は、敦康親王を東宮(皇太子)にと望んでいましたが、藤原行成に説得されて敦成親王を皇太子にすることとしたのだといわれています。




藤原道長

藤原彰子


一条天皇









☆ ☆ ☆ ☆ ☆


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光源氏


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鎌倉検定過去問~西行と源頼朝と鶴岡八幡宮放生会~


東大寺再興の勧進のため、陸奥に赴く途中、鎌倉で源頼朝に謁見した逸話が残る僧はだれか。

『吾妻鏡』によると、面会の折、源頼朝が西行に贈った銀の引き出物は何の動物を象ったものか。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


『吾妻鏡』によると、1186年(文治2年)8月15日、源頼朝は西行に面会しています。


西行像

西行は、平安時代から鎌倉時代にかけて活躍した僧。

俗名は、佐藤義清(のりきよ)。

その家系は藤原秀郷を祖とし、曾祖父の頃より「左衛門尉」であったことから「佐藤」を名乗るようになったとする説があります。

源頼朝に仕えた安達盛長や、源義経に仕えた佐藤継信・忠信兄弟が同族といわれています。


義清が誕生したのは、平清盛と同じ1118年(元永元年)。

鳥羽上皇の時代には、北面の武士として仕えました。

「北面」とは、白河法皇の時に院警固のための設置された制度で、弓馬の道に優れただけではなく、眉目秀麗で、詩歌管弦に堪能であることが条件とされていたそうです。

しかし、義清は、1140年(保延6年)、23歳で出家してしまいます。

『西行物語』は、出家の原因を親友の佐藤範康の死と伝えているようです。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


~弓馬道を教えてもらった頼朝~

『吾妻鏡』によると・・・

鶴岡八幡宮で流鏑馬が始められた年の前年8月15日、鶴岡八幡宮に参拝した源頼朝は、鳥居の辺りを徘徊している一人の老僧を見つけます。

梶原景季に名前を尋ねさせたところ、佐藤兵衛尉義清という元北面の武士で、今は西行と名乗っているとのことでした。

鶴岡八幡宮奉幣の後、頼朝は西行を御所に招き入れて、和歌や弓馬のことについて尋ねます・・・

しかし西行は、

「弓馬のことは、出家する前まではその流派を伝えていましたが、1137年(保延3年)に出家したときに、藤原秀郷以来九代の嫡流家に伝わった兵法は焼いてしまい、罪業の原因ともなりますので心にも留めず、忘れてしまいました。

詠歌については、花月に対して心が動いたときにただ31文字を作るだけで、深く理解しているわけではありません」

と答えたのだといいます。

それでも、頼朝が再三にわたって尋ねたので、弓馬のことは一晩に亘って語ったといいます。

頼朝は、藤原俊兼にその口述を記録させたそうです。




翌日の正午ごろ、西行は頼朝御所を辞します。

頼朝は、このとき銀で作られた猫を西行に贈りますが、西行は、門の外で遊んでいた子どもたちに玩具として与えてしまったそうです。

西行は、東大寺復興費用の勧進のため奥州平泉へ向かう途中でした。

(※絵:「西行法師子供に銀猫を与ふるの図」)


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


西行から弓馬道について聞いた頼朝は、翌1187年(文治3年)8月15日、鶴岡八幡宮で放生会を催します。

そして「流鏑馬」を奉納しました。

これが鶴岡八幡宮例大祭の起源となります。


小笠原流・流鏑馬

鶴岡八幡宮例大祭は9月14日~16日。

最終日の16日には小笠原流流鏑馬が奉納されます。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆



「きゝもせず 束稲やまのさくら花 よし野のほかに かゝるべしとは」

平泉を訪れた西行は束稲山の桜を見て、

吉野の桜にも勝るとも劣らない」

と驚いたのだといいます。

中尊寺の東物見台に西行の歌碑が建てられています。




鎌倉検定


鶴岡八幡宮例大祭








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浜降式:鶴岡八幡宮例大祭

神幸祭:鶴岡八幡宮例大祭

流鏑馬


鶴岡八幡宮



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2024年9月14日土曜日

2024日向の彼岸花~臨時観光案内所とMAP~


源頼朝大姫の病気回復を願って参詣した日向薬師の麓の里山彼岸花の群生地。

9月21日(土)・22日(日)・23日(月祝)には臨時観光案内所が設置されます。



日向のヒガンバナは小田急伊勢原駅からバスで。

伊勢原駅北口3番乗場「日向薬師行」終点下車。



☆ ☆ ☆ ☆ ☆



日向薬師は薬師如来の霊場。

北条政子源実朝の正室・坊門姫と参詣しています。

10月6日の道灌まつりでは、「北条政子日向薬師参詣行列」を見ることができます。




日向の彼岸花


日向薬師

大山寺


日本遺産・・・大山


道灌まつり








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小出川の彼岸花

西方寺のヒガンバナ

常泉寺のヒガンバナ

英勝寺のヒガンバナ


鎌倉のヒガンバナ
ヒガンバナ


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