源頼朝は、1199年(建久10年)1月13日に亡くなりました(53歳)。
頼朝の死因について、『吾妻鏡』には相模川の橋供養の帰りに落馬して程なく亡くなったと記されています。
これが一般的な説となっていますが・・・
北条政子が源実朝の菩提を弔うために創建したという高野山の金剛三昧院にかつてあった史料「真俗雑録」には、源頼朝の死についての「驚くべき説」が書かれていたようです。
その内容は・・・
「夜中に御所を徘徊する不審者を安達盛長が刀で刺すと、それは鶴岡八幡宮に参籠しているはずの源頼朝だった」
というもの。
頼朝は自分の恥になるので頓死したことにするよう遺言したのだとか。
金剛三昧院は、1211年(建暦元年)、北条政子の発願で源頼朝の菩提を弔うために建立された禅定院に始まる寺院ともいわれます(諸説あり)。
1219年(承久元年)、暗殺された源実朝の遺骨が納められ、金剛三昧院に改称されたのだとも。
実朝の死後、出家して高野山に入った安達景盛が伽藍整備を行なったようです。
景盛は、頼朝を刺したとされる盛長の嫡男。
毎年4月13日、源頼朝墓では、頼朝の遺徳を偲ぶ「墓前祭」が執り行われます。
かつては、鎌倉まつりの最後を飾っていたイベントのようです。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆