藤原実資の『小右記』や赤染衛門の『栄花物語』によると・・・
花山天皇に入内した藤原忯子は、懐妊しても里下がりを許されず、懐妊5か月にしてやっと里(実家)へ帰ることが認められたのだといいます。
しかし、里に戻った忯子の容体は悪化。
にもかかわらず、花山天皇は忯子に会いたいがために無理に参内させます。
忯子の父為光は、泣きながら花山天皇に訴えて、忯子を里にもどしたのだとか・・・
そして、懐妊7ヶ月後の985年( 寛和元年)7月18日に忯子は亡くなります(17歳)。
📎藤原忯子の懐妊と死~花山天皇は?父藤原為光は?
法性寺では、忯子の四十九日法会が営まれました。
法住寺は、989年(永祚元年)に藤原為光が建てた寺。
985年(寛和元年)に亡くなった妻と娘の忯子の菩提を弔うために建立したのだと伝えられています。
次回の光る君へ
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