別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2021年1月28日木曜日

梶原景時が上洛しようとした理由~梶原景時の変~


結城朝光を讒言したことで御家人66人の弾劾にあい、1199年(正治元年)12月18日、鎌倉を追放となった梶原景時

1200年(正治2年)1月20日、景時は子息らとともに上洛するため一宮館(現在の寒川町)を出発しますが・・・

駿河国清見関付近で在地武士と合戦となり、景時は嫡子景季とともに討死し、梶原一族は滅亡しました。


梶原景時終焉の地



『吾妻鏡』によると・・・

1月28日、甲斐国から石和(武田)信光が鎌倉に到着。

信光の報告によると、

「武田有義が梶原景時との約束を受けて、密かに上洛しようとしていると聞いたので、子細を尋ねるため屋敷へ向かったところ、すでに逃げ去った後で行方がわかりません。

ただ、一通の書状があったので開いてみると、景時からの手紙でしたので、景時に同心したのは明らかです」

とのこと。

信光の報告によって、梶原景時は鎌倉幕府に対する反逆を企て、天皇に許可を得るため、また、九州の武士を糾合するため、上洛しようとしたのだということが判明。

さらに、甲斐源氏の棟梁武田信義の四男有義を将軍に立てようとする書状があったことが判明したのだとか・・・。



梶原景時の変

梶原景時・景季の最期








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