1198年(建久9年)12月、稲毛重成は亡妻の冥福を祈って相模川の橋を造り、12月27日に供養が行われました。
(茅ヶ崎)
相模川の橋供養には源頼朝も参列しましたが、その帰路、八的原(やまとはら)にさしかかった所で、弟の義経と叔父の行家の怨霊に出会い、稲村ヶ崎では安徳天皇の怨霊が現れます。
それを見た頼朝は、急にめまいがして倒れ、馬上から落ちてしまいます。
すぐに供の者らが助け起こして御所へ連れていきますが、とうとう病気となってしまいます。
様々な祈祷や治療が尽くされましたが、その効果はなく新しい年を迎えます。
1199年(建久10年)正月11日、頼朝は病気のため出家。
そして、13日に逝去(享年53歳)。
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~義経の怨霊が現れた八的原~
義経の怨霊が現れた八的原は、現在の藤沢市辻堂だという説があります。
鎌倉時代の辻堂の砂丘は、弓の練習場で八つの的を作ったところから八的原と呼ばれていたようです。
(藤沢市辻堂)
辻堂の宝泉寺は、頼朝が勧請したといわれる寺院。
諏訪神社
宝泉寺のすぐ横には辻堂の鎮守・諏訪神社。
御神木の欅の根
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~茅ヶ崎に残された落馬伝説~
茅ヶ崎の伝説では、鶴嶺八幡宮にさしかかった所で、義経や行家らの亡霊が現れたことで、驚いた馬が棒立ちとなり、頼朝は落馬したのだといいます。
鶴嶺八幡宮の参道にある弁慶塚は、里人が義経一族の霊を慰めるため造ったのだと伝えられています。
御霊神社は、大庭景義が先祖の鎌倉権五郎景政を祀った毘沙門堂を前身とする社で、頼朝の前に怨霊となって現れた義経が合祀されています。
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(下関市)
安徳天皇は、壇ノ浦の戦いで平家が滅亡すると、二位尼(平清盛の妻)に抱かれて入水しました。
赤間神宮は数え年8歳で崩御した安徳天皇を祀る社。
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亡くなった頼朝の亡骸は、持仏堂に葬られました。
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