1180年(治承4年)8月17日、伊豆国で源氏再興の挙兵をした源頼朝は、石橋山の戦いに敗れたものの、安房国に渡って軍勢を整え、10月6日(7日とも)に鎌倉入りしました。
鎌倉を本拠とするよう進言したのは、下総国で頼朝に従った千葉常胤だったのだといいます。
(衣張山より)
『北条九代記』によると・・・
作戦会議中に常胤が頼朝に申し上げたことは、
「今の御軍陣は敵の攻撃を防ぐのに適当な土地ではありません。
相模国の鎌倉こそ先祖が残されたすぐれた遺跡であって、地形は堅固で敵を防ぐのに適しています。
陸からの配備も、海上路としても、四方の国郡に達するのに便利です。
兵たちを集めるのにも、軍事用の食糧を運ぶのも思いのままです」
これに加えて
「鎌倉の地名は大織冠藤原鎌足の伝説に由来していること」
「鎌足の玄孫染屋時忠が鎌倉に居住して関東八か国の追捕使を勤めていたこと」
「平貞盛の孫平直方は、源頼義に娘を娶らせ、八幡太郎義家が誕生すると、鎌倉の地を義家に譲り、以来、鎌倉は源家重代の領有地となったこと」
を申し上げ、
最後に
「将来の幸運をこの世にもたらし、先祖の名を雲の上にまで響かそうとするには、この鎌倉がまことにめでたくすばらしい土地柄です」
と申し上げたのだとか。
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鎌倉に入った頼朝がまず始めたのは、御所の造営と鶴岡八幡宮の遷宮です。
頼朝は鶴岡八幡宮を鎌倉の街づくりの中心に据え整備していきます。
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