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~御所内に置かれた問注所~
『吾妻鏡』によると・・・
1184年(元暦元年)10月20日、御所の東面の庇の下の二間に設けられ、問注所と書かれた額が掲げられました。
初代の執事には三善康信が任命されています。
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三善康信は、伊豆に流されていた源頼朝に定期的に京都の情報を伝えていた公家。
母が頼朝の乳母の妹だったようです。
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~ 移 転 ~
頼朝の時代には、御所の一所に原告と被告を呼び出して争わせていましたが、多くの者が集まって騒ぎ立て、無礼をはたらく者もいたようです。
『吾妻鏡』によると・・・
1192年(建久3年)11月25日、頼朝の前で武蔵国の熊谷郷と久下郷の境界争いの裁判が行われます。
問注所に出頭したのは、熊谷直実と久下直光。
しかし・・・
口べたで頼朝の質問に上手に答えることができない直実は、憤怒して書類を投げ捨てて座を立ってしまいます。
さらに、西の侍所で刀を抜いて髻を切り、私宅へも帰らず逐電してしまいました。
あっけにとられた頼朝。
この事件があってから裁判は三善康信邸で行うこととなります。
その後、裁判を行う場所について議論が重ねられてきたようですが、1199年(建久10年)4月1日に御所の外に新造されることとなったようです。