(木太海浜緑地より)
1185年(元暦2年)2月16日、屋島の平家を攻めるため、源義経を先陣とする軍兵が出陣。
2月17日、義経は阿波国に上陸し、平家軍の拠点・屋島へと兵を進めます。
その軍勢が休憩した場所と伝えられているのがこの場所。
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当時は完全な島だった屋島。
赤牛が渡れるという噂を聞いた義経は、数十頭の赤牛を放ち、浅瀬の場所を確認し、屋島へ上陸したのだと伝えられています。
相引川(あいびきがわ)は、四国本土と屋島を分離する河川。
源平が激闘を繰り広げ、引き分けたことから「あいびきがわ」と呼ばれるのだとか・・・。
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屋島の戦いでは、奥州平泉から義経に従っていた佐藤継信が討死。
平教経が義経を狙って放った矢を身代わりとなって受けたのだとか。
裏側には五輪塔
大夫黒は、義経が後白河法皇から賜った名馬。
佐藤継信が討死すると、義経は供養してくれた僧へ礼として贈り、死後は継信のそばに葬られたのだと伝えられています。
菊王丸は、佐藤継信を討った平教経に仕えた童(雑用係)。
継信の首を取りに行ったところを、継信の弟・忠信に射殺されたのだそうです。
この碑は、1643年(寛永20年)に初代高松藩主・松平頼重が武士道の鏡・継信を広く世人に知らせるために建立。
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壇ノ浦の戦いで崩御した安徳天皇を祀る霊所。
ここは安徳天皇の行宮(あんぐう)があった場所なのだそうです。
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那須与一が矢を放つ際に足場を築いた場所。
屋島合戦画帖 邨田丹陵筆
日暮れになり、源平両軍が引き始めます。
すると、海上の平家の軍船から一艘の小船が近寄ってきます。
小船の女性は扇を掲げています。
源義経は、畠山重忠に扇を射るように命じますが、重忠は辞退。
代りに那須為隆を推薦します。
しかし、為隆も辞退。
弟の那須与一を推薦します。
そして・・・
与一は見事に扇を射落としたのでした。
那須与一が祈りを捧げた岩。
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平家の侍大将・平景清と美尾屋十郎廣徳の一騎打ちが行われた所。
逃げる十郎の兜を景清が熊手で引っかけ、兜の錣を引きちぎったのだとか・・・
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屋島の戦いで負傷した源氏軍の兵士が運ばれた寺。
源平の庭
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六萬寺の安徳天皇を守るために築かれた門。
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義経が弓を落としてしまったという場所。
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義経が本陣を構えた場所。
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弁慶が兵たちの炊事のための水を確保するために長刀で掘ったという井戸。
弁慶が背中をまな板の代わりにしたという地蔵尊。
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