しかし、平氏の勢力が大きくなるにつれて、後白河法皇や東大寺、興福寺、延暦寺、園城寺といった寺院勢力との対立が生じてきました。
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~後白河法皇と清盛の対立~
1177年(治承元年)には、後白河上皇と清盛の対立を決定的にした事件が発生。
平氏打倒を企てた後白河法皇の近臣たちが清盛によって処罰された事件で「鹿ケ谷の陰謀」と呼ばれています。
ただ、近年では、後白河法皇が対立していた比叡山を清盛に攻めるよう要請したことで、比叡山と戦いたくない清盛が陰謀事件をでっち上げたのだという説もあるようです。
いずれにしても、後白河法皇と清盛との間には大きな溝が生じました。
1179年(治承3年)11月20日、清盛は後白河法皇を鳥羽殿に幽閉し、独裁政治を開始します。
さらに、翌年には、娘徳子の生んだ安徳天皇を即位させ、安徳天皇に譲位した高倉上皇は、これまでの例をやぶって最初の社参を平氏に縁の深い厳島神社とします。
しかし、この先例をやぶった厳島社参は、園城寺・延暦寺・興福寺の大衆が平氏から離反するきっかけをつくってしまいます。
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~以仁王の挙兵~
こうした情勢の中の1180年(治承4年)4月9日、後白河法皇の第三皇子以仁王が源頼政と謀って、園城寺や諸国の源氏と連携して挙兵します(以仁王の令旨)。
しかし、以仁王の挙兵は失敗し、5月26日、南都へ向かう途中の平等院の戦いで鎮圧されました。
(平等院塔頭・最勝院)
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~福原遷都~
平等院の戦い後の6月2日、清盛は、安徳天皇・後白河法皇・高倉上皇が福原に遷幸します(福原遷都)。
しかし、遷都はうまくいきませんでした。
宗盛なども京都に帰ることを主張していたようですし、延暦寺の大衆も蜂起して遷都反対を訴えていました。
その結果、11月26日には安徳天皇・後白河法皇をはじめ平家一門も京都へ帰っています。
京都に帰った清盛でしたが・・・
翌27日には延暦寺の堂衆が源氏につき、28日には、平経盛の知行国若狭国の在庁官人が平氏にそむき、29日には、近江源氏が園城寺に入ったという知らせが届きます。
さらに、延暦寺・園城寺・興福寺などの反平氏の寺社勢力も活発な動きを見せ始め、反乱は全国的な展開となりました。
以仁王の挙兵に園城寺・興福寺といった寺院勢力も呼応したことで、それまでの情勢が一気に不安定となりました。
清盛は寺院勢力との距離を置くために福原遷都を強行したものと考えられます。
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~源頼朝の挙兵~
この間の8月17日、伊豆国の源頼朝が挙兵し、10月20日、平維盛を大将とする平氏軍が富士川の戦いで敗走させられています。
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~南都焼討~
12月11日、清盛の五男平重衡が園城寺を攻撃して焼き払います。
12月18日には、後白河法皇の幽閉を解いて政権を法皇に返し、反平氏勢力の討伐に専念することとし、いよいよ清盛の矛先は南都へと向けられます。
なるべく平和的な解決を望んでいた清盛は、まず軽武装の妹尾兼康500騎を南都に派遣しますが、南都の大衆は兼康の兵60余人の首を猿沢池に並べたのだといいます。
これに激怒した清盛は、12月25日、重衡を総大将とする4万の兵を南都へ向かわせました。
27日、木津方面より侵攻した平氏軍。
戦いは平氏軍の有利に進みますが、南都大衆の抵抗を続けたことから決着がつきませんでした。
そして、翌28日、重衡は南都に火をかけます。
これが東大寺・興福寺などの有力な寺院をも焼く大きな火災となりました。
東大寺は、聖武天皇の発願によって建立され、歴代天皇の崇敬を受けてきた寺院。
興福寺は、藤原氏の氏寺。
重衡は、東大寺や興福寺まで焼くことを予想してのことではなかったのでしょうが、南都焼討は、寺院勢力と貴族を完全に敵に回してしまう結果を招きます。
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~清盛の死~
1181年(治承5年)2月、清盛が病に倒れます。
閏2月4日死去しました(享年64歳)。
その後の平氏は、3月の墨俣の戦いで勝利していますが、以後、大きな戦勝報告はなく、1183年(寿永2年)には、源義仲によって京を攻められ都落ちします。
再び京に戻ることはなく、1185年(元暦2年)、壇ノ浦で滅亡しました。
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平重衡
南都焼討で東大寺や興福寺を焼亡させた平重衡。
1184年(寿永3年)の一の谷の戦いで捕えられ、鎌倉へ送られた後、翌年3月、壇ノ浦の戦いで平氏が滅亡すると南都へ引き渡され、木津川畔で斬首されました(享年29)。
鎌倉の教恩寺には、重衡が源頼朝から与えられたという阿弥陀像が残されてます。
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