別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2017年10月24日火曜日

征夷大将軍源頼朝の巻狩り

富士山


1192年(建久3年)7月12日、征夷大将軍となった源頼朝

翌1193年(建久4年)3月21日、入間野・那須野で巻狩を催すため鎌倉を発ちます。

後白河法皇の一周忌法要が終わるのを待ってのことでした。

この巻狩は、遊興のために行ったものではありません。

征夷大将軍としての大軍事演習です。


3月25日には武蔵国入間野で鳥猟が行われ、藤沢清親が百発百中の妙技を披露したといいます。

4月には那須野に入り、小山朝政宇都宮朝綱八田知家がそれぞれ1000人の勢子を動員するという大規模な狩りを行いました。

那須光助が食事の用意をしています。


※勢子・・・狩猟の場で鳥獣を追いたてる者。

※那須光助は、巻狩に先だって、その準備料として下野国の一村を与えられている。


那須野に20日間ほど滞在した頼朝は、上野国を経て28日に鎌倉へ戻っています。

このときに使用されたのが仮粧坂を起点とする「上の道」だったとのではないかといわれています。


柄沢神社

藤沢市の柄沢神社には、巻狩の路次に頼朝が参拝したことが伝えられています。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

翌5月8日、今度は富士裾野の巻狩りを催すため鎌倉を発ち、15日には到着します。

翌日、嫡男の頼家が鹿を射とめます。

愛甲季隆が獲物を追いつめてくれたそうです。

頼朝は大いに喜び、さっそく梶原景高を使わして鎌倉の北条政子に知らせますが・・・

景高は「武家の子が鹿を射たくらいで・・・」と言われて恥をかいたのだとか。


白糸の滝

白糸の滝は、源頼朝も感動した富士の名瀑。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

さて・・・この富士裾野の巻狩りでは重大事件が発生しています。

「曽我兄弟の仇討ち」です。

『吾妻鏡』を読んでいると、重大事件が発生する前には、必ずといっていいほど奇妙な事件が発生しています。

曽我兄弟が親の仇工藤祐経を討ったのは5月28日、その前日に工藤景光が大鹿に出逢います。

景光は狙った獲物を逃したことがない弓の名手でしたが、二度三度射ても当たりませんでした。

景光はその時、「神鹿ではないか」と思ったそうです。

そして、その晩から病に倒れてしまったので、頼朝も狩を止めたほうがよいと考えたようですが、宿老たちによって止められたのだといいます。

そして、翌日の夜半に曽我兄弟による仇討ちが発生しました。


富士の巻狩りと曽我兄弟の仇討ち


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

曽我兄弟の仇討ち事件は、のちに頼朝の弟範頼の失脚へと繋がり、範頼修禅寺へ流され、間もなく暗殺されたのだと伝えられています。

頼朝が鎌倉へ戻ったのは6月7日のことでした。


源範頼の墓

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