源頼朝公上洛之図
(箱根神社蔵)
1189年(文治5年)の奥州征伐で藤原泰衡を滅ぼし、東国全土を手中に治めた源頼朝は、翌1190年(建久元年)に上洛します。
従う兵は1000騎。
10月3日に鎌倉を発った一行は、頼朝が懐島(茅ヶ崎市)に至っているのに後陣はまだ鎌倉を出発していなかったといいます。
そんな行列が京へ到着したのは11月7日。
約1ヶ月の滞在期間中、源氏の氏神である石清水八幡宮にも参拝しました。
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11月9日、頼朝は後白河法皇に謁見しています。
その日、頼朝は権大納言に任じられました。
さらに24日には右近衛大将(右大将)に任じられました。
しかし、鎌倉へ帰るときに両職を辞しています。
なぜ辞任したのかはわかりませんが、右大将では西国の侍大将に過ぎず、鎌倉政権にとっては何の意味もないものだったからかもしれません。
頼朝が欲しかったのは「征夷大将軍」だったのです。
三十三間堂は、後白河法皇の院御所「法住寺殿」の一画に建てられた。
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「征夷大将軍」とは・・・
征夷大将軍は、その地位からすれば右大将よりも低いもの。
しかし、征夷大将軍には戦時下における司法権が与えられ、天皇の詔をいただくことなく自らの判断で司法権を行使することができました。
古代、出征する将軍には、全権を委任するという印である「節刀」(せっとう)が授けられたといいます。
つまり、征夷大将軍の地位にある間は天皇の代理人であり独裁者になれるということ。
そして、鎌倉政権のトップにたつ頼朝にとってはこの称号が必要でした。
しかし、「征夷」という意味は「東夷を征討する」という意味。
したがって、「奥州を平定してしまった後においては必要のない官職のはず」という説もあるようですが・・・
頼朝にとってそんな事は関係なく、その官職に与えられる権限が必要だったということなのでしょう。
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この年の上洛で頼朝は、九条兼実とも会談をしています。
その中で次のように述べたといいます。
「いまの世は法皇が思うがままに天下の政治をとり、天皇とても皇太子と変わりないありさま。
目下のところはいたしかたないが、さいわいにあなたもお若くてまだ先が長い。
私にも運があれば、法皇御万歳の後には天下の政を正しくする日がやってくるでしょう」
(九条兼実の廟所)
そして、1192年(建久3年)、後白河法皇が崩御し、頼朝は念願の征夷大将軍に任じられています。
以後、征夷大将軍を長とする武家政権が700年近くの長い間続くこととなります。
(源氏山公園)
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