別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2017年8月8日火曜日

源頼朝を助けた清水寺の観音さま

『吾妻鏡』によれば・・・

源頼朝が3歳のとき、乳母が清水寺に14日間の参籠をして、頼朝の将来を熱心に願掛けしたところ、夢のお告げがあって、忽然として二寸の銀の正観音像を得たのだとか・・・

その観音像が頼朝の守り本尊。


清水寺


~源氏再興挙兵と観音さま~

源頼朝配流地

1180年(治承4年)、伊豆に流されていた源頼朝は、後白河法皇の皇子・以仁王の平家打倒の令旨を受け取ります。

そして、挙兵の日を8月17日と定めました。

しかし・・・

当日の朝になっても頼りとしていた佐々木四兄弟が到着しません。

『吾妻鏡』にはこのように記録されています。

頼朝は挙兵を日延べすることを考えたようですが、翌日(18日)は、幼児のころから観音さまを祀って祈る日となっていますので、合戦はできません。

※清水寺から下された二寸の銀の正観音像を祀ったのでしょうなぁ~きっと。

さらに翌々日(19日)になれば、密事が世間にばれてしまうでしょう。

さぁ~どうする頼朝!

といった感じですが、午後になって佐々木四兄弟が到着し、その夜、挙兵しました。


~石橋山の戦いと観音さま~

石橋山古戦場

8月24日、石橋山の戦いで大敗した源頼朝

山中に逃れますが、しとどの窟に身を潜めたのだそうです。

そのとき頼朝の髷には観音像が入れられていました。

清水寺から下された二寸の銀の正観音像です。

窟を立ち去る時、頼朝はこの観音像を置いて逃げました。

なぜならば・・・

大庭景親らの平家方に捕まったときに「観音像を本尊としていたのでは源氏の棟梁らしくない」と非難されてしまうと考えたからなのだそうです。


しとどの窟

その後、窟に置いてきた観音像は、伊豆山の專光坊良暹の弟子僧が見つけて頼朝に届けられています。


~持仏堂の本尊~

1189年(文治5年)、源頼朝は御所の裏山に奥州征伐のための祈願所を設けます。

これが頼朝の持仏堂と呼ばれたもので、本尊は、清水寺から下された二寸の銀の正観音像でした。

源頼朝墓

持仏堂は、現在、頼朝の墓塔がある場所に建てられたのだといいます。

1199年(建久10年)に亡くなった頼朝も、持仏堂に葬られたのだとか・・・

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源頼朝配流地

奈良・京都

歴史めぐり源頼朝


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