源頼朝が3歳のとき、乳母が清水寺に14日間の参籠をして、頼朝の将来を熱心に願掛けしたところ、夢のお告げがあって、忽然として二寸の銀の正観音像を得たのだとか・・・
その観音像が頼朝の守り本尊。
~源氏再興挙兵と観音さま~
1180年(治承4年)、伊豆に流されていた源頼朝は、後白河法皇の皇子・以仁王の平家打倒の令旨を受け取ります。
そして、挙兵の日を8月17日と定めました。
しかし・・・
当日の朝になっても頼りとしていた佐々木四兄弟が到着しません。
『吾妻鏡』にはこのように記録されています。
頼朝は挙兵を日延べすることを考えたようですが、翌日(18日)は、幼児のころから観音さまを祀って祈る日となっていますので、合戦はできません。
※清水寺から下された二寸の銀の正観音像を祀ったのでしょうなぁ~きっと。
さらに翌々日(19日)になれば、密事が世間にばれてしまうでしょう。
さぁ~どうする頼朝!
といった感じですが、午後になって佐々木四兄弟が到着し、その夜、挙兵しました。
~石橋山の戦いと観音さま~
8月24日、石橋山の戦いで大敗した源頼朝。
山中に逃れますが、しとどの窟に身を潜めたのだそうです。
そのとき頼朝の髷には観音像が入れられていました。
清水寺から下された二寸の銀の正観音像です。
窟を立ち去る時、頼朝はこの観音像を置いて逃げました。
なぜならば・・・
大庭景親らの平家方に捕まったときに「観音像を本尊としていたのでは源氏の棟梁らしくない」と非難されてしまうと考えたからなのだそうです。
その後、窟に置いてきた観音像は、伊豆山の專光坊良暹の弟子僧が見つけて頼朝に届けられています。
~持仏堂の本尊~
1189年(文治5年)、源頼朝は御所の裏山に奥州征伐のための祈願所を設けます。
これが頼朝の持仏堂と呼ばれたもので、本尊は、清水寺から下された二寸の銀の正観音像でした。
持仏堂は、現在、頼朝の墓塔がある場所に建てられたのだといいます。
1199年(建久10年)に亡くなった頼朝も、持仏堂に葬られたのだとか・・・
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