鎌倉の海に鰹というふ魚は、かの境には雙なきものにて、この頃もてなすものなり。
それも、鎌倉の年寄の申し侍りしは、
「この魚、おのれ等若かりし世までは、はかばかしき人の前へ出づること侍らざりき。
頭は下部も食はず、切り捨て侍りしものなり」
と申しき
かやうの物も、世の末になれば、上ざままでも入りたつわざにこそ侍れ。
鎌倉時代の随筆『徒然草』には、このように記されています。
鎌倉の鰹が二つとないものとしてもてなされているが、鎌倉の年寄りも「自分が若い頃には、上級階級の食するものではなかった」・・・
というような内容のようです。
鰹のような魚を食するようになった世情を嘆いているのだとか・・・。
※『徒然草』(作者:吉田兼好)
鎌倉時代の末(1330年から1331年頃)に書かれたとされています。
江戸時代になると・・・
松尾芭蕉は「鎌倉を生きて出でけん初鰹」と詠みました。
山口素堂は「目には青葉やまほととぎすはつ松魚」と詠みました。
いずれも鎌倉の鰹を詠んだ句です。
江戸時代、鎌倉の獲れた鰹は早船で江戸に送られ、高値で取引されていたといいます。
伝えられている話では・・・
鰹の捕れる時期になると、由比ヶ浜の波打ち際に鰹が跳ね上がってきたそうです。
漁師はその鰹を鶴岡八幡宮へ初穂として供えたということです。