1180年(治承4年)、源頼朝は由比若宮を現在地に遷し、武家の都の街づくりの中心に据えました。
参道の若宮大路は京都の朱雀大路を模して造営されました。
(若宮大路)
しかし、1191年(建久2年)3月4日、南風が強く吹き荒れた午前2時頃、小町大路で火事が発生します。
強風にあおられた火は、北条義時、大内惟義、比企朝宗、佐々木盛綱、一品房昌寛、新田忠常、工藤行光、佐貫広綱など御家人10人の屋敷を焼きます。
さらに、火は鶴岡八幡宮の五重塔に燃え移り、御所、神殿、回廊、経所が悉く灰燼と化してしまいました。
供僧坊のいくつかも延焼を免れることはできなかったそうです。
頼朝は、午前4時頃、甘縄の安達邸に避難しています。
(甘縄神明神社)
3月6日、焼失した鶴岡八幡宮を参拝して、頼朝は涙を流したといいます。
しかし、立ち直りは早く、8日には再建の工事にとりかかります。
7月28日には御所が建て直され、頼朝は、安達邸から新亭に移っています。
そして、11月21日、本宮(上宮)と若宮の遷宮が行われました。
頼朝は若宮再建とともに本宮を創建し、改めて石清水八幡宮の祭神を勧請しています。
本宮は、大臣山の中腹を削り造営されていますが、町で起こった火災から防ぐためと考えられています。
このときから鶴岡八幡宮は上下両宮の姿となりました。
遷宮の際に行われた儀式を再現したのが、毎年12月16日に行われる「御鎮座記念祭」(御神楽)です。
正月4日に行われる手斧始式は、頼朝が鶴岡八幡宮を再建する際に行った儀式をその始まりとしているといいます。