由良御前は、源義朝との間に頼朝、希義、坊門姫をもうけています(義門も由良御前が産んだ子ともいわれています。)。
1159年(平治元年)の平治の乱後、希義は捕らえられ、土佐国介良荘に流されました。
1180年(治承4年)、兄源頼朝が挙兵します。
希義も挙兵するのではないかと恐れた平氏は、希義を討つことにします。
これを察知した希義は、夜須行宗を頼ろうとしますが、夜須荘に辿り着く前に平重盛の家人で土佐国の豪族、蓮池権守家綱と平田太郎俊遠に討たれてしまいます(1182年(寿永元年)9月25日)。
希義が頼ろうとした夜須行宗は、土佐国の豪族で、土佐に流されてきた希義を助け源氏再興と計っていたといいます。
(参考:梶原景時・讒訴の科で鎌倉中の道路工事を命ぜられる。)
源頼朝墓の傍らには、高知市にある源希義墓の土と石が置かれています。
『吾妻鏡』によると・・・
土佐国の琳猷上人は、1185年(元暦2年)3月27日、希義の遺髪を持って鎌倉を訪れ、頼朝に対面しています。
平氏に討たれた希義の遺体は、平氏の仕返しを恐れて放置されたままになっていました。
それを葬って供養し続けきたのが琳猷上人だったそうです。
頼朝は「死んだ弟に会えたようだ」と言って琳猷上人に礼を述べたといいます。
そして、1187年(文治3年)正月19日、頼朝は希義の追善供養を行い、希義の墓所に堂(西養寺)を建立しています。
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