開山に迎えられたのは、宋から渡来した無学祖元。
建立の目的は「鎮護国家」(仏法によって国家を鎮め護ること。)と、「蒙古襲来(元寇)による戦没者の敵味方のない供養」だといわれています。
※帰国を希望していた祖元のために建立したという説もあるようです。
正式名称は、瑞鹿山円覚興聖禅寺。
総門に掲げられた「瑞鹿山」の額 |
山号の「瑞鹿」は、円覚寺落慶の日、「開山無学祖元の法話を聞くために白鹿が集まってこれに連なった」という伝説に由来しています。
白鹿洞 |
祖元の法話を聞くため集まった白鹿は、この洞窟から出てきたのだといいます。
山門の「円覚興聖禅寺」の額 |
寺号の「円覚」は、この地から石櫃に入った円覚経が掘り出されたことによるといいます。
※山門の扁額は、伏見上皇のご宸筆です。
創建の翌年、北条時宗は、寺領として尾張国富田庄を寄進しています。
北条時宗書状(弘安6年7月18日) |
7月18日付けの時宗の書状(国重文)では、将軍家御願寺としたこと、寺領が確定したことなどが祖元に伝えられています。
無学祖元書状(弘安6年7月18日) |
これに対し祖元は、7月18に時宗へ感謝の書状(国重文)を送るとともに、衆僧に「千万勉力せよ」と説法したといいます。
※時宗と祖元の書状は、鎌倉国宝館に寄託されています。
富田庄図 |
「富田庄図」(国重文)は、円覚寺に寄進された当時のもの(鎌倉国宝館に寄託)。
円覚寺は、近くの小袋谷にも菜園をもって野菜を自給していたといいます。
佛日庵 |
円覚寺創建から間もない1284年(弘安7年)4月4日、時宗が亡くなります(34歳)。亡骸は円覚寺に葬られました(佛日庵)。
正続院 |
一方、祖元は、この年の12月、円覚寺住持を辞し建長寺専住となります。
そして、時宗の三回忌から間もない1286年(弘安9年)9月3日、建長寺で示寂しました。亡骸は建長寺に葬られています(参考:正続院)。
円覚寺
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鎌倉手帳
https://www.yoritomo-japan.com/kamakura.html