上総氏は、千葉氏、三浦氏、鎌倉氏などと同じく、平良文を祖とする板東八平氏の一つといわれています(参考:村岡御霊神社(藤沢宮前)、御霊神社(鎌倉坂ノ下))。
広常の参陣によって「頼朝の挙兵が成功した」ともいわれています。
(参考:源頼朝大軍を率いて鎌倉入り)
のちに頼朝は後白河法皇に、
「上総介広常は東国に勢いのある武将で、
私が東国を従えることができたのも、広常が参陣したおかげです。」
と語っているといいます。
広常の屋敷は、朝夷奈切通付近にあったといいます。
1180年(治承4年)12月12日、頼朝は、広常邸から大倉の新亭に移っています。
(参考:源頼朝の新亭造営・・・大倉幕府)
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そんな広常でしたが、傲慢な態度も目立っていたようです。
1181年(治承5年)6月19日、頼朝は、納涼散歩のため三浦に出かけます。三浦一族が準備をした催しでした。
~広常、下馬の礼をとらず・・・~
このとき、広常も佐賀岡浜で頼朝を出迎えています。
50人余りの部下は、皆下馬し砂浜に平伏しますが、広常は、轡を緩めて敬礼したのみで馬から下りませんでした。
三浦義連は、広常の前に出て、下馬の礼をとるよう促しますが、広常は、
「公私共三代の間、未だその礼を成さず」と言ったといいます。
~頼朝の水干を巡って岡崎義実と喧嘩~
その後、衣笠合戦で命を落とした三浦義明の旧跡に場所が移ります。
三浦義澄によって酒宴の席が用意されていました。
酒宴が進んでいくと、岡崎義実が頼朝の水干を所望しました。
水干はすぐに義実に下賜されます。
しかし、広常はこれを妬み
「このような美しい服は、広常のような者が拝領すべきであって、義実のような老いぼれに下賜されるのは予想外である・・・」
と息巻いたため、双方が言い合いとなり、あわや殴り合いの喧嘩となるところだったといいます。
これを鎮めたのは、三浦義連だったそうです。
以上は、『吾妻鏡』の記事によるものですが、このような態度が災いしたのか・・・・・?、ついに広常は、謀叛を疑われてしまいます。
~広常の暗殺~
1183年(寿永2年)12月、頼朝は広常を暗殺します。
『愚管抄』によると、梶原景時が双六に興じている最中に謀殺したということです。
『吾妻鏡』は、事件の詳細を述べていないようですが、
翌年1月17日条には、広常が鎧に結びつけていた願文のことが書かれています。
この願文は、頼朝の祈願成就のための願文でした。
この願文によって、広常に謀叛の心がなかったことが明らかとなり、頼朝は広常を暗殺したことを悔やんだといいます。
(参考:源頼朝のための願文・・・上総介広常)
ただ・・・、
のちに頼朝が上洛したときの後白河法皇との対面では、
「広常は、『なんで朝廷のことばかり見苦しく気を遣うのか、板東での活動に誰が命令できるのか』というのが常で、関東の自立のみを望んでいたため殺した」
と語ったと『愚管抄』は伝えています。
この年の10月、頼朝は朝廷から「東海道・東山道の沙汰権」(寿永二年十月宣旨)を得ています。
朝廷と連携して平家打倒を目指す頼朝と、東国の独立心に燃えていた広常とでは、根本の考え方に違いがあったのでしょうか。
そして、頼朝は「謀叛」という形で広常を殺さなければならなかったのかもしれません。
梶原景時が上総介広常を討ったあと、この水で刀の血のりを洗い流したと伝えられています。
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