別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2020年8月23日日曜日

先陣を切って討死した佐奈田与一義忠~石橋山の戦い~


1180年(治承4年)8月23日の夜、源頼朝が布陣した石橋山に、大庭景親の軍が攻め込みます。


(小田原市)


ただ・・・

頼朝軍は300騎、対する景親軍は3000騎ですので、どう考えても頼朝に勝ち目はありません。

佐奈田義忠と俣野景久

現在の平塚市真田を領していた佐奈田与一義忠は、岡崎義実の子です。

頼朝が頼りにしていた三浦義明は、伯父に当たります。

※「佐奈田」は「真田」とも書きます。



義忠討死の地
(石橋山古戦場)


伝承によると・・・


頼朝の命により先陣を務めた義忠は、大庭景親の弟俣野景久と戦います。

いったんは、景久を組み伏せた義忠でしたが、刀を抜くことが出来ず、景久を助けに来た長尾定景に討たれてしまいました。

(※その前に敵将を討ち取った際に、刀を拭わずに鞘に差したため抜くことが出来なかったそうです。)

義忠が討ち取られた場所は「ねじり畑」と呼ばれていますが、この畑の作物は、全て「ねじれてしまう」という言い伝えが残されているそうです。

(※義忠を討った長尾定景は、のちに源実朝を暗殺した公暁を討ち取る武将です(参考:久成寺)。)


文三堂


義忠の郎党文三家康も稲毛重成の手勢によって討たれました。

(※のちに頼朝は、稲毛重成の催した橋供養に参列し、帰路落馬して命を落とします(参考:旧相模川橋脚)。)

文三は、主人義忠が討たれると、敵陣に斬り込み8人を討ち取った後、壮烈な死を遂げたと伝えられています。

文三堂は、文三家康を祀るお堂です。


与一塚

佐奈田霊社


義忠が討死した場所には「与一塚」が建てられ、義忠を神霊とする佐奈田霊社が建立されました。

義忠は、「戦いの最中にタンがからみ、助けを呼ぶことが出来ず、それが原因で討ち取られてしまった」という伝説から、咳の神様として親しまれています。

佐奈田霊社では、「佐奈田飴」が売られています。


こちらは、義忠の手附石


『吾妻鏡』によると・・・

1190年(建久元年)正月20日、二所詣でに出掛けた頼朝は、途中、石橋山の義忠と文三の墓に詣でて涙を流したといいます。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

真田尊


義忠が領していた平塚市真田の天徳寺にある真田尊です。

こちらも義忠は、「タンを喉につまらせたことによって討たれた」という伝説から、ぜんそく、たん、せきの神様として崇められています。






☆ ☆ ☆ ☆ ☆

証菩提寺

証菩提寺は横浜市栄区にある寺院です。

頼朝義忠の菩提を弔うために建立したと伝えられています。

義忠の父岡崎義実の五輪塔もあります。






☆ ☆ ☆ ☆ ☆

義忠の父・岡崎義実

岡崎義実の墓


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