源頼朝は、1180年(治承4年)8月20日、相模国への進軍を開始しますが・・・
頼みとする三浦一族が未だに到着していません。
三浦一族は、相模灘を渡って頼朝のもとへ駆けつける予定でいましたが、風雨によって渡海することができないでいました。
陸路を進むことは、平家方の大庭景親らに頼朝の挙兵を知らせてしまうことになるため、海路を選んだのだといいます。
当時は、現代のように便利な時代ではありません。
三浦一族は、「頼朝が予定どおりに挙兵したのか」ということも、すぐには確認できなかったでしょう。
したがって、むやみに陸路を使用することは避けなければなりませんでした。
(横須賀市)
三浦一族の総帥三浦義明
(横須賀:満昌寺蔵)
8月22日、三浦一族が陸路での進軍を開始します。
おそらく、この頃には、「頼朝が山木館を襲撃し、相模国へ進軍している」との報が入ったいたのかと思われます。
『吾妻鏡』によれば・・・
三浦義澄・佐原義連・大多和義久とその子義成
(三浦義明の子・・・参考:薬王寺跡・満願寺)
和田義盛とその弟義茂・弟義実
(三浦義明の孫(杉本義宗の子)・・・参考:和田の里・杉本城址)
多々良重春・多々良明宗
(三浦義明の孫(多々良義春の子))
津久井義行
(三浦義明の弟)
などの武将が三浦を出発しています。
※三浦義明の弟岡崎義実とその子佐奈田義忠は、すでに頼朝に従っています。
しかし・・・
三浦軍は、23日の夜、酒匂川まで到達しますが、折からの雨によって酒匂川が増水し、渡河することができませんでした。
「翌朝を待って渡河し頼朝と合流」と考えていた三浦軍でしたが、その前に「頼朝敗北」の報が入り、仕方なく本拠衣笠城に引き上げます。
~小坪合戦と衣笠合戦~
石橋山の戦いに間に合わず、衣笠城へと帰る三浦軍は、その途中の由比ヶ浜で畠山重忠軍に遭遇し、合戦となってしまいます(8月24日)。
この合戦によって、三浦義明の孫多々良重春が討死しました(小坪合戦)。
一端両軍は兵を引き上げますが・・・
8月27日、畠山重忠・河越重頼・江戸重長に衣笠城を攻められ、三浦義明が討死しています(衣笠合戦)。
(参考:石橋山の戦いと衣笠合戦~三浦義明の討死~)
材木座の来迎寺には、衣笠合戦で最期を遂げた三浦義明と、小坪合戦で命を落とした義明の孫多々良重春の五輪塔があります。
来迎寺は、頼朝が義明の菩提を弔うために建立した能蔵寺をその前身としています。
来迎寺の本堂の裏には、三浦一族の墓もあります。
衣笠城址
(蔵王権現社跡)
(蔵王権現社跡)
(物見岩)
三浦義明の菩提寺
(横須賀)
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『吾妻鏡』にみる源頼朝の挙兵
源頼朝の挙兵・・・山木館襲撃
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(小田原市)