「いい国(1192)つくろう鎌倉幕府」
ということで、1192年(建久3年)に源頼朝が征夷大将軍に任命された時が鎌倉幕府の成立の時というのが多くの人のご意見かと思われます。
しかし、いろんな説があります。
①鎌倉に軍事政権が誕生した1180年(治承4年)
②寿永二年十月宣旨によって頼朝の東国支配権が認められた1183年(寿永2年)
③公文所・問注所が設置された1184年(元暦元年)
④守護・地頭の設置が認められた1185年(文治元年)
⑤頼朝が右近衛大将に任じられた1190年(建久元年)
これらの説を考えてみると・・・
②④の説は、治承・寿永の乱の最中です。治承・寿永の乱は、単に源平の合戦を意味するのではなく、源義仲の討伐、源義経の鎌倉追放、奥州藤原氏の討伐などを含めたものです。
②④の事項を、その目的達成のために朝廷に認めさせたものと考えると、鎌倉幕府の成立と直接結び付くのか疑問です。
②④の事項を、その目的達成のために朝廷に認めさせたものと考えると、鎌倉幕府の成立と直接結び付くのか疑問です。
③の新たな機関の設置は、単に公文所・問注所という名の組織が追加されたのみで、それ以前にも行政や裁判の機関はあったはずです。侍所はすでに設置されていました。
⑤の右近衛大将は、近衛府の統べる官職ですので、「幕府」=「近衛府」という解釈なのでしょうか?
さてさて・・・
また、一般的な1192年説は、頼朝が名実ともに全国の支配者となった時と考えられます。
頼朝墓の下にある歌碑 「君出でて 民もしづまり 九重の塵もをさまる 世とはなりにけり」 https://www.yoritomo-japan.com/page041hokedoato.htm |
しかし・・・、鎌倉幕府の成立という前に大きな疑問があります・・・
そもそも「鎌倉幕府」というのは、どのような意味をもっているのでしょう?
中国では、出征した将軍の本営を「幕府」と呼んでいたそうです。
これにならっているとすると、征夷大将軍に任命されたときに、将軍の本営である頼朝の御所が幕府と呼ばれていたということなのでしょう。
その後も将軍不在の時期がありましたし、特に頼朝亡き後の政治は、将軍はほとんど関係のないものでした・・・。
そして、頼朝自身は、「鎌倉幕府」と呼んでいたのでしょうか?
頼朝の創った武家政権が「鎌倉幕府」と呼ばれたのは江戸時代になってからのことだといいます。
頼朝の初期の政治は、現代のように、「○○をするから□□を設置する」とか、「○○しなければならないから□□を設置する」というような型にはまったものではなく、
必要に応じて仕事の内容やそれに携わる人を調整しながら、徐々にそれぞれの組織の充実が図られ、それがある程度軌道に乗ったときに、
一つの「特定された組織」として成立し、その名称が『吾妻鏡』などの歴史書にも登場してくるのではないでしょうか?
おそらく、「まずは仕事!」だったでしょうから・・・。
(どこかの国の政治家にも聞かせてあげたい名文句かも。)
ただ、頼朝が鎌倉に入って新亭を造営し、「鎌倉の主」と呼ばれたときには、全ての組織の原型となるものは整っていたと思います。
そうでなければ、武家政権など樹立できないと思います。
鎌倉幕府成立と同じような事で、1191年(建久2年)に設置されたという「政所」は、前年、頼朝が右近衛大将(兼権大納言)に任ぜられたことによって「公文所」の名称を改めたという説が有力です。
しかし、「政所」は、従三位になれば設置する資格があったといいます。頼朝は、1185年(文治元年)には従二位に昇進していますし、すでに「政所」と称していたという証拠もあるそうです。
私は、歴史の素人ですので、学者先生のお考えは難しくてわかりませんが・・・
こんな風に感じてしまいます。
頼朝にも「幕府を開く」という認識はなかったようですし、鎌倉時代における「幕府」という定義もはっきりとしていないようですので、「何がいつから始まった」ということを特定するのは難しい事なのかもしれません。
頼朝の初期の政治は、現代のように、「○○をするから□□を設置する」とか、「○○しなければならないから□□を設置する」というような型にはまったものではなく、
必要に応じて仕事の内容やそれに携わる人を調整しながら、徐々にそれぞれの組織の充実が図られ、それがある程度軌道に乗ったときに、
一つの「特定された組織」として成立し、その名称が『吾妻鏡』などの歴史書にも登場してくるのではないでしょうか?
おそらく、「まずは仕事!」だったでしょうから・・・。
(どこかの国の政治家にも聞かせてあげたい名文句かも。)
ただ、頼朝が鎌倉に入って新亭を造営し、「鎌倉の主」と呼ばれたときには、全ての組織の原型となるものは整っていたと思います。
そうでなければ、武家政権など樹立できないと思います。
鎌倉幕府成立と同じような事で、1191年(建久2年)に設置されたという「政所」は、前年、頼朝が右近衛大将(兼権大納言)に任ぜられたことによって「公文所」の名称を改めたという説が有力です。
しかし、「政所」は、従三位になれば設置する資格があったといいます。頼朝は、1185年(文治元年)には従二位に昇進していますし、すでに「政所」と称していたという証拠もあるそうです。
大倉幕府跡碑
「大倉幕府」と「鎌倉幕府」は同じです。頼朝の御所が大倉にあったからそう呼ばれるものです。のちに将軍御所が移転されていますので、 宇津宮辻子幕府とか若宮大路幕府と呼ばれました。 https://www.yoritomo-japan.com/page041ookura-bakufu.htm |
私は、歴史の素人ですので、学者先生のお考えは難しくてわかりませんが・・・
こんな風に感じてしまいます。
頼朝にも「幕府を開く」という認識はなかったようですし、鎌倉時代における「幕府」という定義もはっきりとしていないようですので、「何がいつから始まった」ということを特定するのは難しい事なのかもしれません。
鶴岡八幡宮
頼朝の都市計画は、全て鶴岡八幡宮を中心に行われました。https://www.yoritomo-japan.com/page041hatiman.htm |
鎌倉の歴史と源頼朝
https://www.yoritomo-japan.com/yoritomo-top.htm
鎌倉手帳
https://www.yoritomo-japan.com/kamakura.html