教恩寺は、北条氏康が光明寺境内に建てた教恩寺を前身としています。
平重衡とは何の関係もないのですが、本尊の阿弥陀如来像は、重衡と深い関係があると伝えられています。
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1180年(治承4年)、後白河法皇の第三皇子以仁王は、平氏討伐のための令旨を全国の源氏に発します。
これによって、源頼朝をはじめとする全国の源氏が挙兵することとなります。
以仁王自らも源頼政とともに挙兵しましたが、南都(奈良)の興福寺に向かう途中に討死したと伝えられています。
(平等院塔頭・最勝院)
1180年(治承4年)8月17日、源頼朝が挙兵。
石橋山の戦いでは敗れたものの、10月6日には東国の武士団を率いて鎌倉入りを果たしました。
頼朝は、富士川の戦いで平氏軍を破り、さらに常陸の佐竹討伐を行い、東国は頼朝の制圧下に入ります。
そんな中、平清盛の五男重衡は、清盛の命を受けて、反平氏勢力である京の園城寺を焼き払い、次いで、南都に攻め込み興福寺、東大寺を焼き尽くしました。
僧兵
平安時代以後、京都・奈良の大寺院は大きな軍事力をもっていました。
特に奈良興福寺の僧兵は、その武力を背景に入京して強訴に及ぶなど、後白河法皇にも意のままにならない存在だったといいます。
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1183年(寿永2年)、頼朝の従兄弟にあたる木曽義仲は、倶利伽羅峠で平氏軍を破り京へ侵攻します。
都の平氏はこれによって都落ちをしました。
京を奪った義仲は、翌1184年正月、鎌倉の頼朝が派遣した弟範頼、義経に敗れ討死しています。
その年の2月、範頼、義経は、一ノ谷の戦いで平氏軍を破ります。
重衡は、この合戦で捕らえられ梶原景時によって鎌倉に送られてきました。
運慶作とも伝えられている仏像ですが、快慶風の作風が感じられる像として、神奈川県の有形文化財に指定されています。
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鎌倉に送られてきた重衡に会った頼朝は、重衡の態度に感心し、一族の冥福を祈るよう阿弥陀如来像を与えたと伝えられています。
それが、教恩寺の本尊だということです。
頼朝に気に入られた重衡は、侍女の千手の前を与えられ、工藤祐経が鼓を、千手の前が琵琶を、重衡が笛を吹くという酒宴が催されたといいます。
1185年(元暦2年)3月、平氏は壇ノ浦の戦いに敗れ滅亡します。
鎌倉の重衡は南都に引き渡されることとなり、木津川で斬首されました。
『吾妻鏡』によると、千手の前はそれから3年後、突然失神し、その3日後に亡くなったとされています。
また、『平家物語』は、重衡亡き後、出家して信濃国善光寺で重衡の菩提を弔いながら亡くなったと伝えています。
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