~大町常栄寺の伝説~
源頼朝の時代、鶴岡八幡宮の例大祭は、旧暦の8月15日に行われ「放生会」と呼ばれていました。頼朝は、由比ヶ浜で千羽鶴を放生したとも伝えられています。
大町にある常栄寺は、1271年(文永8年)9月12日、裸馬に乗せられ龍ノ口刑場へと護送される日蓮に、この地に住んでいた桟敷の尼が「胡麻のぼたもち」を捧げたことから・・・、
『ぼたもち寺』と呼ばれています。
田中優子女史画
『ぼたもちでら常栄寺縁起』より。
源頼朝は、千羽鶴放生会を観覧するため、この地の山の上に展望台(桟敷)を作ります。
のちに老女がその桟敷を管理するようになったので、その老女は「桟敷の尼」と呼ばれるようになりました。
桟敷の尼は比企能員夫人の妹という説もあります。
尼の夫は六代将軍宗尊親王に仕えていた印東次郎左衛門尉祐信で、夫婦そろって日蓮に帰依していました。
「ぼたもち寺」と呼ばれる常栄寺には夫婦の墓が建てられています。
龍ノ口刑場に連れて行かれた日蓮は、奇跡的に処刑を免れます。
そのため、桟敷の尼の捧げたぼたもちは「頸つぎのぼたもち」と言われ、現在でも9月12日の龍口法難会では「胡麻のもち」が供えられます。
常栄寺の名称は、尼の法名「妙常日栄」に因ります。
1606年(慶長11年)に創建された常栄寺は、開山日詔が開設した宝篋院檀林という僧侶の学問所でしたが、のちに檀林は武蔵の池上本門寺に移されています。
~腰越法源寺の伝説~
法源寺の石標
腰越にも「ぼたもち寺」があります。鎌倉の源氏山という丘があって、その源氏山から和賀江島の出船・入船を見物する人々を相手に茶店を出していた老婆がいたそうです。
日蓮が法難のあった日、たまたま小動岬の実家に帰っていた老婆は、龍ノ口に護送されていく日蓮と出会います。
その時に、「にぎり飯」を差し出そうとしますが転んでしまい、「にぎり飯」が砂にまみれ、ごまをまぶしたようになってしまいました。
しかし、日蓮はそれを喜んで食べたといいます。
その後、日蓮が奇跡的に命を助けられたことから、「にぎり飯」が「延命のぼたもち」とか「ご難よけのぼたもち」と呼ばれるようになったということです。
法源寺は、1303年(嘉元元年)の創建で、桟敷の尼の実家の菩提寺なのだとか・・・。
龍口寺輪番寺を勤めていました。
法源寺からは腰越の海が見えます。