『吾妻鏡』によると・・・
1192年(建久3年)4月2日、政子が懐妊し、安産祈願としての「着帯の儀」が執り行われました。
帯は平賀義信の妻が用意し、頼朝自らが帯を締めたといいます。
7月8日、出産間近となった政子は、産所とした名越の浜御所(はまのごしょ)に移ります。
浜御所とは、おそらく北条時政邸のこと・・・?
8月9日、朝早くから政子が産気づくと頼朝は、鶴岡八幡宮や相模国の神社仏寺に神馬を奉納し、安産のための誦経をさせています。
神馬を奉納し経をあげさせた
相模国の神社仏寺は27ヶ所
相模国の神社仏寺は27ヶ所
(参考:政子の安産祈願所)
~主な祈願所~
(逗子市)
(伊勢原市)
(伊勢原市)
(平塚市)
午前10時頃、無事に男児(実朝)が生まれると・・・
悪魔払いのため、弓を鳴らす「鳴弦」と、鏑矢を放つ「引目」の儀式が行われます。
北条義時らは護刀(まもりがたな)を献上しました。
また、大江広元らによって刀と馬が献上され、これらが加持祈祷を行った験者や寺社に与えられています。
次に、乳母である阿波局が乳を与える役として参上しています。
阿波局は、政子の妹で、頼朝の異母弟阿野全成の妻です。
そして、御名字定めがあって「千万」と名付けられました。
(一般的に幼名は「千幡」という字が使われているようです。)
その後、二夜・三夜・四夜・五夜・六夜・七夜の儀式が執り行われています。
8月20日には、頼朝が浜御所を訪れ、父母がそろっている射手を選んで草鹿が催されました。
10月19日、政子と千万は御所に移ります。
この間、頼朝は征夷大将軍に任ぜられています。
7月20日、京より飛脚が到着し、7月12日に征夷大将軍に任ぜられたことが伝えられ、26日にはその辞令が届けられています(参考:源頼朝が征夷大将軍に任ぜられる!)。
平塚市にある貴船神社の三面大荒神は、安産祈願所の一つだった常蘇寺の観音堂に祀られていました。
頼朝は、生まれた子の夜泣きが止まないので、三面荒神に祈願したところ夜泣きが止んだのだといいます。
そのため、「泣き荒神」と呼ばれています。
その後の主な儀式
11月5日、「御行始」が行われ、甘縄の安達盛長邸に出掛けています。
11月29日、五十日百日(いかがももか)の儀が行われます。
五十日(いかが)・・・
生後五十日の祝いで、赤子の口に餅を含ませるといいます。
百日(ももか)・・・
生後百日目のお食い初めの儀式。
12月5日、浜御所に御家人を集め、頼朝自ら千万を抱いて出御します。そして、将来の守護をするようにと丁寧な言葉を尽くし、酒が振る舞われたといいます。
そして、参列した者は、引き出物として腰刀を献じています。
御行始が行われた安達邸は、甘縄神明神社付近にあったと伝えられています。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
8月の鶴岡八幡宮で開催される「ぼんぼり祭」。
その最終日(8月9日)は実朝の誕生日。
実朝の遺徳を偲ぶ「実朝祭」が行われます。