高徳院の境内、大仏さまに向かって左側の木立の中には、わが国の衛生行政の基礎を築いた長与専斎の碑が建てられています。
松香長与先生紀功之碑 題の篆書は日本銀行を設立した松方正義、撰文は医学博士の土肥慶蔵、 碑文の文字は一高教授の菅虎雄の揮毫です。 大正8年、町制25周年の記念事業の一つとして、 鎌倉の発展に貢献した長与専斎の功績を長く伝えるために建てられました。 |
専斎は、明治6年に文部省医務局長を務め、医療制度の刷新を図り、
明治8年には東京医学校校長、
明治11年には内務省の衛生局長を務め、
医学教育、医療制度、衛生行政の整備・拡充に貢献しました。
明治8年には東京医学校校長、
明治11年には内務省の衛生局長を務め、
医学教育、医療制度、衛生行政の整備・拡充に貢献しました。
海水浴場開場100年碑 専斎は、横須賀線の開通前から鎌倉の地を訪れており、 明治17年には、鎌倉の海岸を「海水浴の最適地」として推奨しました。 また、わが国最初の海浜サナトリウム「海浜院」(結核療養所)の設立にも携わっています。 由比ヶ浜海岸に建てられた碑は、 鎌倉の海が海水浴場として開かれた明治17年から100年を記念して建てられたものです。 |
日本で最初の海水浴場は、明治15年に平塚で開かれたといいます。
日光浴で健康増進を図ること目的に、ドイツ人医学者ベルツなどが海水浴を薦めたといいます。
鎌倉の海は、それより少し遅い開場となりますが、鎌倉の海は、波穏やかで遠浅であることから、女性や子どもにも安全ということもあって、海水浴の文化は鎌倉を中心に広まっていきました。