別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2011年1月26日水曜日

大将!源頼朝の墓~法華堂跡~


私が源頼朝の墓を初めて訪れたのは、昭和55年の夏だったと思いますが、今の墓と少し雰囲気が違っていたようです。


源頼朝墓
沢寿郎著『鎌倉史跡見学』より


写真が古いのですが、昭和55年頃の源頼朝の墓もこんな感じだったと記憶しています。

この源頼朝の墓は、1779年(安永8年)、薩摩藩の島津重豪が建てたものです。


現在の「源頼朝の墓」

現在の墓塔は、島津重豪が建てた墓が何者かに破壊されたことから平成2年に修復されています。


島津氏の家紋「丸に十字」

寄進碑

源頼朝の墓の前に建てられた寄進碑には、安永8年巳亥2月という年月と薩摩中将源重豪という寄進者名が刻まれています(※源重豪というのは、島津重豪のことです。)。

当時、この場所には1メートルにも満たない五輪塔があったといいます。

重豪は、東隣の山腹に島津氏の祖忠久の墓所を造る際に源頼朝の墓も一緒に修理しました。

層塔は勝長寿院にあったものが移されたと伝わっています。

島津忠久は、頼朝の子ともいわれ、重豪としては遠祖頼朝の墓を新たに建立し、その供養をしたということでしょうか。




源頼朝の墓のある場所には、頼朝自身が建てたという持仏堂があったそうです。

そして死後、持仏堂に葬られたことから、「墳墓堂」あるいは「法華堂」と称されるようになったといわれています(参考:源頼朝の守り本尊~正(聖)観音像~)。

その後、法華堂が廃されて、五輪塔などの供養塔が置かれていたものと考えられているようですが、頼朝が本当にここに葬られたという確証はないようです。


◎法華堂跡

鎌倉幕府を開いた源頼朝と、頼朝亡き後、鎌倉幕府の実権を握った二代執権北条義時の法華堂があった場所といわれています。

頼朝の法華堂は、現在、頼朝の墓がある所とされ、義時の法華堂はその東側の山腹にあって、平成17年の発掘調査の結果、義時の法華堂である可能性が高いことが判明したといいます。

法華堂跡は、国の史跡に指定されています。


源頼朝の御所(大倉幕府)


源頼朝の墓の下には、頼朝の御所がありました(のちに大倉幕府と呼ばれています。)。

源氏三代はここで政治を行いました。

三代将軍源実朝は、1213年(建保元年)に起こった和田合戦の折、御所からこの高台にあった法華堂に避難したといわれています。


頼朝・希義兄弟の再開

源希義は、頼朝の同母弟で平治の乱後、土佐に流されていました。

平氏打倒の気運に乗して挙兵しますが、間もなく討死しています。

平成6年、お互いの墓所の土と石が交換され、兄弟が再会を果たしたということです。





源頼朝の墓の横には、島津忠久の墓塔を案内する道標があります。

その道標の背後の崖を上がっていくと・・・、頼朝墓の東の山腹に忠久の墓があります。


=頼朝墓の東の山には・・・=

島津忠久の墓

現在の源頼朝の墓と一緒に造られました。





島津忠久墓の隣には、大江広元とその子季光の墓があります。

広元墓(左)は、1823年(文政6年)に建てられたもので、季光墓(右)は、大正10年に鶴岡八幡宮西の鶯ヶ谷の山から移されたものと伝わっています。


北条義時の法華堂跡

島津忠久墓の下の平場に、二代執権北条義時の法華堂があったといわれています。

平成17年の発掘調査で、さらに、その可能性が高いことが判明したそうです。

参考までに・・・

ここからさらに東側の山腹に、昔から「義時さん」と呼ばれてきた「やぐら」があります。



三浦泰村の墓

北条義時の法華堂跡の崖裾にある「やぐら」は、1247年(宝治元年)、源頼朝の法華堂で自刃した三浦泰村らが葬られた「やぐら」と伝えられています(宝治合戦)。

この時、大江広元の子で毛利氏の祖という季光も自刃しています。



源頼朝の顕彰碑

君出でて 民もしづまり 九重の 塵もをさまる 世とはなりにけり








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