=小町大路(前編)=
筋違橋
鎌倉十橋に数えられていた橋ですが、
現在は橋標と石碑が残されているだけです。
この橋は、六浦道(路)の起点でもありました。
1247年(宝治元年)の宝治合戦では戦端となった場所です。
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小町大路です。 |
筋違橋の橋標 橋標には「東北方源頼朝邸址」 「南約一町北条邸址」と刻まれています。 |
宝戒寺
後醍醐天皇の命により足利尊氏が建立した天台宗の寺。
北条氏の執権館があった場所とされています。
宝戒寺は「ハギの寺」として知られています。
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石柱にも北条九代屋敷と刻まれています。 |
少し大路からそれて宝戒寺裏を散策します。 |
宝戒寺橋
紅葉の季節には美しい景色となります。
宝戒寺橋から東勝寺橋の眺めも人気があります。
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紅葉山やぐら
北条執権ゆかりの者の骨を納めたやぐらとされています。
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東勝寺橋
青砥藤綱の伝説が残されている橋。
大正時代に建築された橋で、
鎌倉市の景観重要建築物等に指定されています。
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東勝寺跡
北条高時とその一族を含む約870名が自刃した場所です。
源頼朝以来、約150年間続いた鎌倉幕府を滅ぼしました(参考:鎌倉幕府の滅亡)。
石碑の右側の道は祇園山ハイキングコースへの道です。
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腹切りやぐら
北条高時が葬られたとされるやぐらです。
しかし、実際は釈迦堂ヶ谷奥やぐら群に葬られたと考えられています。
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直進方向は東勝寺跡で、右が山王ヶ谷です。
山王ヶ谷には、かつて英勝寺の山門がありました。
大町へ続く道でもあります。
(参考:鎌倉散歩道~山王ヶ谷から大町へ~)
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宝戒寺墓地
大町への隧道
~小町大路に戻ります~
土佐坊昌俊邸跡
土佐坊昌俊は、京の堀川の館にいる源義経に夜襲をかけた人物です。
しかし、捕らえられ六条河原で斬首されました。
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妙隆寺
千葉胤貞邸跡に建てられた日蓮宗の寺です。
二代住持日親には、
室町六代将軍足利義教に、灼熱の鍋を被せられたという伝説が残されています。
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日蓮上人辻説法跡
1253年(建長5年)、鎌倉に入った日蓮は、松葉ヶ谷の草庵を営み、
この小町大路で説法を行いました。
現在の辻説法跡碑は、日蓮信者の田中智学によって整備されました。
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琴弾橋
二代将軍源頼家の嫡男一幡の館があった小御所山には、
風がわたると琴を弾くような音がしたという「琴弾の松」があったと伝えられています。
滑川に架けられたこの橋は、その松にちなんで琴弾橋と呼ばれています。
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蛭子神社
本覚寺の門前にあったという夷三郎社(夷堂)が、
明治の神仏分離によってここに移されました。
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大巧寺
「おんめさま」として親しまれている日蓮宗の寺。
もとは十二所にあって、源頼朝が戦評定を行って勝利を収めたことから、
「大行寺」という寺名を「大巧寺」に改めたといいます。
五代日棟の産女霊神の伝説が残され、安産祈願の寺として知られています。
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本覚寺
身延山の日蓮の遺骨が分骨されていることから、
「東身延」と呼ばれている寺です。
また、二代日朝の伝説によって目の神様としても知られ、
「日朝さま」として親しまれています。
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夷堂橋
鎌倉十橋の一つ。夷堂の前に架けられたため付けられた名です。
この橋の下を流れる滑川は、「夷堂川」と呼ばれています。
夷堂橋より手前が小町、先が大町となります。
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妙本寺
比企の乱によって滅んだ比企能員の屋敷があった所です。
比企能員の末子能本によって建立されたと伝えられています。
境内には比企一族の墓、一幡の袖塚、若狭局を祀った蛇苦止堂があります。
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常栄寺への道
「ぼたもち寺」として知られている寺です。
ぼたもちを捧げたという桟敷の尼夫妻の墓があります。
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八雲神社への道
八雲神社は大町の鎮守です。
新羅三郎義光の伝説で知られる鎌倉最古の厄除け神社です。
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大町四ツ角
ここで大町大路と交差します。
この辺りが鎌倉で最も商業が発展した所です。
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小町大路の散策(後編)・・・大町四ツ角~材木座