平治の乱で源義朝を破った平清盛は、武士としてはじめて公卿の列に加えられ、その後、次々と昇進を重ねます。
(参考:武家政権を樹立した平清盛)
なおいっそうの繁栄を願った清盛は、信仰していた厳島神社に三十三巻の経巻を奉納しました。
『平家納経』は、
法華経二十八品
無量義経一巻
観普賢経一巻
般若心経一巻
阿弥陀経一巻
平清盛の願文一巻
の合計三十三巻。
これに経箱一具、唐櫃一合からなっています。
1954年(昭和29年)、その全品が「国宝」に指定されています。
平清盛願文 |
清盛の願文によれば・・・
長子重盛をはじめとする子息達、弟の頼盛(池禅尼の子)・教盛・経盛、門人・家僕・縁者三十二人がそれぞれ一巻を分担して、善美を尽くしてつくられたもので、1164年(長寛2年)9月に奉納したとあります。
しかし、清盛直筆の「般若心経」は、その奥書によると、太政大臣に昇進した後の1167年(仁安2年)2月23日に奉納したもののようですので、全体の完成にはこの頃までかかったものと考えられているようです。
経巻 |
各巻の表紙は金銀の金具で飾られ、表紙見返しには経巻の大意をあらわした絵が描かれています。
法華経薬王品の見返し |
厳島神社は、593年(推古元年)の創建と伝えられています。
清盛と厳島神社には、こんな伝説が残されています。
清盛が安芸守だったころ、高野山大塔修復の奉行に任ぜられました。
修復が終わり、高野山に登った清盛の前に老僧が現れます。
老僧は、
「荒廃している安芸の厳島神社を修復し信仰すれば一門は繁栄する」
と清盛に告げたそうです。
老僧を弘法大師だと考えた清盛は、厳島神社を厚く信仰したのだといいます。
その後、保元の乱・平治の乱に勝利した清盛は、1160年(永暦元年)8月、はじめて厳島神社を参詣しています。
(参考:保元の乱・・・武士の台頭 平治の乱・・・明暗が分かれた平氏と源氏)
現在の厳島神社の社殿は、清盛の時代のものではないようですが、1168年(仁安3年)に清盛が援助し、神主の佐伯景弘が造営した姿とほとんど変わりがないといいます。
厳島神社 建物は全て海辺に建てられています。 |
神仏習合の時代には、神は仏が化身して現れたという本地垂迹(ほんじすいじゃく)の思想がありました。
厳島神社の神は、観世音菩薩の化身とされていたようです。
法華経の「観世音菩薩普門品」には、「観世音菩薩は、三十三の姿に化身して衆生を救う」と説かれています。
そのため、平清盛が厳島神社に納めた経巻は、三十三巻になったのだといいます。
厳島神社は、のちに鎌倉に武家の都を築く源頼朝も崇敬し保護しました。
鎌倉手帳
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