別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2011年11月6日日曜日

武家政権を樹立した平清盛



平清盛は、伊勢平氏の棟梁平忠盛の嫡子。

母は不明ですが、古くから白河法皇の落胤とする説があります。

『平家物語』は、白河法皇の寵愛をうけた祗園女御が生んだ子であると述べているようです。

一方、近年では、祗園女御の妹が生んだ子だともいわれています。

1120年(保安元年)、母が急死。3歳だった清盛は、母の姉祗園女御が養育し、やがて忠盛にひきとられたと考えられているようです。

そして、1153年(仁平3年)1月15日、父忠盛が亡くなると、清盛は、その跡を継いで平氏の棟梁となります。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

~保元の乱と平治の乱~

1156年(保元元年)、後白河天皇と崇徳上皇の対立によって起こった保元の乱では、源義朝とともに後白河天皇方につき勝利をおさめ、栄達の基礎をつくりあげます。

保元の乱後、後白河天皇が皇位を二条天皇に譲り院政を開始したことで、後白河上皇派の信西と二条天皇派の藤原信頼が対立します。

そして、1159年(平治元年)、反信西派と源義朝と結び付いた平治の乱が起こります。

このとき、後白河上皇方についた清盛は、義朝を破り、反信西派を一掃して、武家政権樹立の基礎を築きあげます。

この平治の乱では、のちに鎌倉幕府を開く源頼朝が初陣をはたし、父義朝とともに戦っています。しかし、敗れたことによって捕らえられ、伊豆蛭ヶ小島に流されています。

平清盛と源頼朝

平治の乱・・・伊豆流罪となった源頼朝


平治物語絵巻

平治物語絵絵巻


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

~公卿となった清盛
・・・そして太政大臣に~

保元の乱と平治の乱によって、武家勢力は清盛を棟梁とする平氏だけとなります。

保元の乱・・・武士の台頭

平治の乱・・・明暗が分かれた平氏と源氏

平治の乱後の1160年(永暦元年)8月11日、後白河上皇は、天皇親政派に対抗するため、武士の棟梁清盛を公卿の列に加えます。

武士が昇殿を許された例はあったようですが、公卿となったのは清盛が初めてのことでした。

この後白河上皇の方針に対する公卿たちの反応については何も伝えられていないことから、これといった反対もなく実現されたものと考えられているようです。

やはり、白河法皇のご落胤だったからなのでしょうか・・・?


公卿となった後、清盛は次々に昇進していきます。

1161年(応保元年)、検非違使別当を兼ね、権中納言

1162年(応保2年)、従二位

1165年(長寛3年)、権大納言・兵部卿

1166年(永万2年)、正二位内大臣

そして、1167年(仁安2年)2月11日、左・右大臣をとび越して従一位太政大臣となりました。
(※太政大臣は三ヶ月で辞しています。)

太政大臣となった翌年、清盛は重病となり、出家して浄海と号しています。


平清盛

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

~清盛の重病と高倉天皇の即位~

平治の乱後の清盛の昇進には、妻平時子の妹滋子の存在も大きな意味があったようです。

滋子は、後白河上皇の妹上西門院に仕えていましたが、後白河上皇の目にとまり、1161年(応保元年)に憲仁親王を生んでいます。


その憲仁親王は、1168年(仁安3年)に即位して高倉天皇が誕生します。

この即位は、「重病となった清盛が死ぬようなことがあれば、天下が乱れる」と危惧した後白河上皇の発議によって行われたといわれています。

当時の天皇は、亡くなった二条天皇の子六条天皇でした。

六条天皇を擁する天皇親政派が策動する気配を見せていたのかもしれません。

清盛の重病を聞いた後白河上皇は、六条天皇から憲仁親王へ譲位させることで、上皇の地位を固めておくことを考えたものと思われます。

※間もなく清盛の病は平癒しています。

※翌年、後白河上皇は出家して法皇となっています。


高倉天皇


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~殿下乗合事件~

1170年(嘉応2年)7月、清盛の孫資盛(重盛の子)が摂政藤原基房の車と路上で行き会いました。

しかし、資盛が馬から降りなかったため、さんざんな辱めを受けたとする「殿下乗合」(でんかのりあい)事件が起こります。

相手が清盛の孫であることを知った基房は、これを謝罪しますが、重盛は許さず、3ヶ月後には参内する基房の行列を襲撃させ、四人が「もとどり」を切り落とされたといいます。

『平家物語』では、この報復の首謀者は清盛と伝えているようですが・・・

この事件を見聞した慈円は『愚管抄』に、

「小松内府(重盛)は、心の美しい人なのに、どうしたことか・・・」

と記しているようですので、首謀者は重盛だったと考えられています。


平重盛

※重盛は、父清盛の後継者として期待されていましたが、平氏と後白河法皇との関係が破綻する中の1179年(治承3年)7月29日に、清盛に先立って亡くなりました。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

~一門の栄達
・・・平氏に非ざるは人に非ず~

清盛の昇進は、その一門の栄達をもらたします。

1171年(承安元年)には、平時忠が権中納言に任ぜられています。時忠は高倉天皇を生んだ滋子の兄です。

九条兼実は日記『玉葉』に、

「権中納言が十人になったのは初めての例。昨年宗盛(清盛の三男)が九人の例を開いたが未曾有のことだ」

と記しています。

これまでの例では、権中納言の定員は、5人から7人だったのだといいます。

このようにして、朝廷の大半を平氏が占めるようになっていきます。

のちに、平時忠は、「平家にあらずんば人間にあらず」という発言をしています。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

~娘徳子の入内~

清盛は天皇の外戚の地位を得るため、1171年(承安元年)に娘徳子を高倉天皇の後宮に入れます。

当初徳子は、後白河法皇の養女としての入内で「院の姫君」と呼ばれていたようですが、間もなく「平相国の女」と呼ばれています。

こうなると、次に期待されるのが皇子の誕生です。

しかし、なかなか皇子の誕生をみることはできませんでした。

清盛は、皇子誕生を祈願して安芸の厳島に月詣したといいます。

そして、1178年(治承2年)に待望の皇子が誕生しました。のちの安徳天皇です。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

~院と清盛の対立
・・・鹿ヶ谷の陰謀~

平氏一門と血がつながる高倉天皇の即位させた後白河法皇でしたが、もともと清盛は、天皇親政派に近い存在だったので、一門の希望が高倉天皇に注がれるようになります。

そのため、後白河法皇の平氏への警戒心は徐々に大きくなっていきました。

1177年(治承元年)、空位となっていた左大将を狙って、藤原成親などの後白河法皇の近臣が争っていましたが・・・

清盛は、長子重盛を右大将から左大将へ、三男宗盛を右大将に据えてしまいます。

平宗盛


そんな中、平氏打倒の陰謀事件が発覚します(鹿ヶ谷の陰謀)。

京都東山鹿ヶ谷の俊寛(後白河法皇の側近)の山荘で、藤原成親、西光、俊寛らが集まって平氏打倒の謀議をこらしたという事件です。

とくに首謀者とみられる成親は、人事で清盛の三男宗盛にまで越えられてしまった悔しさがあったのでしょう。

(※成親の妻は重盛の娘でしたので、余計に悔しかったかもしれません。)

この事件の発覚によって、清盛は参加者を一網打尽にしますが、院と清盛との対立がはっきりとした事件となりました。

なお、この事件は清盛のでっちあげだとする説もありますが、いずれにしても院と清盛との対立が、かなり深刻なものとなっていたいうことなのかと思われます。


後白河法皇


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

~清盛のクーデターと以仁王の挙兵~

鹿ヶ谷事件によって有力な近臣を失った院でしたが、清盛を無視した人事を次々と行います。

こうした院の態度に、ついに清盛は、後白河法皇を鳥羽殿に幽閉し、独裁政治をはじめることになります(1179年(治承3年)11月20日)。

さらに、翌年には、娘徳子の生んだ安徳天皇を即位させています。


安徳天皇


安徳天皇に譲位した高倉上皇は、これまでの例をやぶって最初の社参を平氏に縁のふかい厳島神社とします。

しかし、この先例をやぶった厳島社参は、園城寺延暦寺興福寺の大衆が平氏から離反するきっかけをつくってしまいます。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

平家納経
清盛の願文

平家納経外装

法華経薬王品の見返し


1164年(長寛2年)、平家一門は、厳島神社に三十三巻の経を奉納します。

これは、清盛をはじめ、重盛・頼盛・教盛・経盛など32人の平家一門が一巻ずつつくりあげたものといわれています。

(全体の完成には1167年(仁安2年)までかかったそうです。)


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

こうした情勢の中、1180年(治承4年)4月9日、後白河法皇の第二皇子以仁王が源頼政と謀って、全国の源氏に平氏打倒の令旨を発し、自らも挙兵します。

『吾妻鏡』によれば、この令旨は、4月27日、源頼朝のいる伊豆国の北条館に届いているようです。

しかし、以仁王の挙兵は失敗に終わり、平氏軍に追われた以仁王は、5月26日、宇治平等院での戦いで討ち取られてしまいます。

当時の京都の情勢は、京都を捨て自国へ帰る途中に伊豆へ立ち寄った三浦義澄と千葉胤頼(常胤の六男)によって、頼朝にも伝えられています。


以仁王


ところで、源頼政という人物ですが、摂津国多田荘を根拠地とした摂津源氏です。

清盛の計らいによって源氏ではありますが従三位にまで昇りました。

『平家物語』によれば、清盛の三男宗盛が、頼政の嫡男仲綱が秘蔵していた名馬を強請し、仲綱と名付けて辱めたから、清盛に対する謀反を起こしたと伝えています。

頼政は、平等院の戦いで自害しています。


源頼政


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

~福原遷都と還都~

平等院の戦い後、福原から京都に入った清盛は、5月30日、突如、安徳天皇・後白河法皇・高倉上皇が福原に遷幸されることを発表します。

洛中が大騒ぎの中、6月2日に遷幸が行われました。

当時、人々は何のための遷幸なのか分からずにいましたが、しばらくしてこれが遷都であることを知ります。

しかし、遷都はうまくいきませんでした。

宗盛なども京都に帰ることを主張していたようですし、延暦寺の大衆も蜂起して遷都反対を訴えています。

その結果、11月23日には、突如、「一人も福原に残るべからず」と発表し、26日には安徳天皇・後白河法皇をはじめ平家一門も京都に帰りました。

清盛が何故遷都を強行したのか定かではありませんが、延暦寺からの圧迫を避けるために行ったものではないかともいわれています。

結局は、延暦寺の圧力によって還都も行うことになるわけですが、この行動は平氏の威信を下げる結果となりました。

この間の8月17日、伊豆国の源頼朝が挙兵し、平維盛を大将とする平氏軍が富士川の戦いで敗走させられています(参考:東征軍の敗走・・・富士川の戦い)。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

~南都焼討~

11月26日、安徳天皇・後白河法皇を奉じて京都に帰った清盛でしたが・・・

翌日には延暦寺の堂衆が源氏につき、28日には、平経盛の知行国若狭国の在庁官人が平氏にそむき、29日には、近江源氏が園城寺に入ったという知らせが届きます。

さらに、延暦寺園城寺興福寺などの反平氏の寺社勢力も活発な動きを見せ始め、反乱は全国的な展開となりました。

12月18日、ついに、清盛は、後白河法皇の幽閉をといて政権を法皇に返し、反平氏勢力の討伐に専念することとします。

そして、12月25日、南都討伐に平重衡を向かわせ、28日には、南都を焼き尽くします。

東大寺興福寺の堂舎・僧坊はことごとく焼失しました(参考:南都焼討の平重衡と鎌倉~教恩寺~)。

東大寺は日本国の総国分寺であり、興福寺は藤原氏の氏寺です。

この南都焼討によって、平氏は寺院勢力と貴族を完全に敵に回してしまうことになります。

・・・南都焼討と東大寺の再興~重源と源頼朝~


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

~清盛の死~

1181年(治承5年)2月、清盛が病に倒れます。

死期を覚った清盛は、後白河法皇に、

「愚僧の死後は万事宗盛に仰せつけられ、宗盛と御相談のうえお取り計らいください」

と奏上しますが、法皇からの確答は得られませんでした。

怨めしく思った清盛は、左少弁藤原行隆を召して、

「天下のことは宗盛の命を第一とせよ。宗盛の命に異論を唱えてはならない」

と命じたといいます。

そして、閏2月4日、清盛は死去しました(享年64歳)。

(参考:平清盛の最期・・・平氏の没落


その後の平氏は、3月の墨俣の戦いで勝利していますが、以後、大きな戦勝報告はなく、1183年(寿永2年)には、源義仲によって京を攻められ都落ちします。

再び京に戻ることはなく、1185年(元暦2年)、壇ノ浦で滅亡しました。

(参考:源平合戦で捕らえられた宗盛と重衡~鎌倉:教恩寺・補陀洛寺~


平氏の都落ち

祇園精舎の鐘の声

諸行無常の響あり

沙羅双樹の花の色

盛者必衰のことはりをあらわす

おごれる人も久しからず

只春の夜の夢のごとし

たけき者も遂にはほろびぬ

偏に風の前の塵に同じ



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奈良・京都

源義朝最期の地

歴史めぐり源頼朝



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