古い書物などでは、「江乃島」「江之島」「柄島」「絵島」などとも書かれています。
『吾妻鏡』によると・・・
源頼朝は、文覚に命じて江ノ島に弁財天を勧請しました。
(参考:怪僧文覚と源頼朝)
1182年(養和2年)4月5日、頼朝は、足利義兼、北条時政、畠山重忠、結城朝光、上総介広常、土肥実平、佐々木盛綱、和田義盛らを供として江ノ島を訪れています。
弁財天の勧請は、奥州藤原秀衡を調伏するためだといわれています。
奥津宮には、その時に頼朝が建てたという鳥居が残されています。
帰路、金洗沢(七里ヶ浜)では牛追物が催されたといいます。
そして、文覚は、江ノ島に籠もり、4月26日、21日間の断食をして祈りを捧げたことを頼朝に報告しています。
(江の島トンボロ)
かつて、干潮時には干潟を歩いて渡ったという。
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『吾妻鏡』によると・・・
1216年(建保4年)正月15日、孤島であった江ノ島が突然陸続きになったといいます。
辺津宮にある奉安殿には「八臂弁財天」と「妙音弁財天」が祀られています。
源頼朝が弁財天を勧請したことで、鎌倉幕府の江ノ島信仰が盛んになります。
その信仰の主な対象は、頼朝が文覚に造らせたという八臂弁財天でした。
八臂弁財天
中津宮に安置されていたと伝わっています。
江戸時代になると、庶民の信仰も増え、裸弁財天(妙音弁財天)も人気を集めます。
妙音弁財天
中津宮前にあったという不老門に安置されていたと伝わっています。
裸形彫刻は鎌倉時代の特徴的な手法といわれています。
鶴岡八幡宮の裸弁財天や延命寺の裸地蔵、青蓮寺の鎖大師などが知られていますが、裸の彫刻を見せるためのものではなく、衣服を着せるためのものだったそうです。