本堂に向かって左側の宝篋印塔は、北条氏の供養のために建てられたもの。
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1333年(元弘3年)、鎌倉幕府は新田義貞の鎌倉攻めによって滅びました。
このとき北条高時以下の北条一族は、東勝寺で自刃したと伝えられています。
1335年(建武2年)、後醍醐天皇の命を受けた足利尊氏は、新田義貞の鎌倉攻めで焼失した東勝寺をこの場所に移し、そのときに北条高時らの遺骨も移されたと伝わっています。
本堂の地蔵菩薩坐像の床下には五輪塔があって高時の遺骨が埋葬されているといいます。
~釈迦堂ヶ谷やぐら群~
かつて、宝戒寺二世住持の「普川国師入定窟」があった「釈迦堂ヶ谷やぐら群」では、「元弘3年5月28日」の日付が刻まれた五輪塔の地輪が発見されています。
5月28日という日は、新田義貞の鎌倉攻めによって北条高時以下の一族が自刃した5月22日から数えて初七日にあたることから、北条一族供養のための五輪塔と考えられています。
そして、「普川国師入定窟」は、北条一族の供養窟であったとも考えられています。
参考:釈迦堂切通:https://www.yoritomo-japan.com/kodou-3.htm
宝戒寺
https://www.yoritomo-japan.com/page043hokaiji.htm
鎌倉手帳
https://www.yoritomo-japan.com/kamakura.html