1263年(弘長3年)11月22日、 北条時頼 が最明寺の北の屋敷で亡くなりました。 37歳でした。 『吾妻鏡』によれば・・・ 時頼 は臨終に際し、衣袈裟を身に着け、縄床に上がって坐禅をくみ、辞世の頌(じゅ)を作ったといいます。 「業鏡(ごうきょう)高く懸(か)く 三十七年 一槌(いっつい)に打碎して 大道担然(たんねん)たり」 (この世の善悪をうつしとる鏡(業鏡)のように、邪悪を正すことに専念した37年間、今では一槌のもとに打ち砕いて、人の踏み行うべき道が平坦に続いている。) 木造北条時頼坐像 (国重文) 時頼 は、1227年(嘉禄3年)5月14日、北条時氏の次男として誕生します。 母は 松下禅尼 、兄は四代執権の 北条経時 。 1246年(還元4年)3月23日、重病となった兄 経時 から執権の地位を譲られます。 執権就任から2ヶ月後の5月25日、前将軍 藤原頼経 をおしたてて幕府の実権を握ろうとしていた名越光時を失脚させ、7月11日には、 頼経 を京都に送還しています( 宮騒動 )。 翌1247年(宝治元年)6月5日には、 安達氏 の後援を得て 三浦泰村 を滅ぼし( 宝治合戦 )、同年7月27日には、北条重時を連署として、北条氏への権力集中を成功させます。 (参考: 北条泰時死後の政局と北条時頼~宝治合戦~ ) 一方で、京都大番役の負担を軽減するなど一般御家人を保護する政策を打ち出し、1249年(建長元年)12月9日には、裁判の迅速化をはかるため 「引付」 (ひきつけ)を設置しています。 時頼が執権時の将軍は・・・? 時頼 が執権に就任した当時の将軍は、藤原頼嗣( 頼経 の子)でした。 しかし、反北条(執権)勢力に利用されるようになった頼嗣は、1251年(建長3年)、鎌倉から追放されます。 (参考: 鎌倉幕府四代将軍・・・藤原頼経 ) そして、1252年(建長4年)4月、後嵯峨上皇の皇子宗尊親王が鎌倉に下向し、六代将軍に就任しています。以後、鎌倉幕府の将軍は親王がその地位に就くこととなります( 親王将軍 )。 建長寺 建長寺 は、1253年(建長5年)に建立されました。 開山は 蘭渓道隆 、開基は 北条時頼 。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 12