別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2025年12月16日火曜日

鎌倉検定 島津忠久~源頼朝の御落胤?~


【問】
鎌倉時代に、将軍源頼朝と御家人島津忠久という関係で結ばれ、800年以上を経た現在でも市民有志の交流が続くなど歴史的な縁が深く、また両市共に美しい海岸線を有しているなどの地理的特徴や、国際観光都市として発展しているなど多くの共通点があることから、2023年(令和5)に鎌倉市と文化・観光交流協定を締結した都市はどこか。

(第19回2級)



2023年(令和5年)12月26日、鎌倉市は鹿児島市と文化・観光交流協定を締結しています。


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島津忠久は、薩摩国を本拠地とした島津氏の祖。

父は惟宗広言で、母は比企尼の長女丹後内侍ですが、源頼朝の御落胤という説が・・・


住吉大社誕生石


伝説によると・・・

源頼朝に仕えていた丹後局が頼朝の子を身籠もると、怒った北条政子畠山重忠に殺すよう命じます。

重忠は家臣の本多次郎近常(親恒)に命じて丹後局を由比ヶ浜に誘い出しますが、殺すことはできず、身代わりを立てて逃がしたのだとか。

そして、丹後局は、摂津国住吉に辿り着き、無数の狐火に導かれて住吉大社に至ったのだといいます。


住吉大社誕生石

社頭で産気づいた丹後局は、傍らの大石を抱きながら男児を出産。

のちに頼朝は、その子に薩摩・大隅二か国を与えます。

それが島津氏の祖・島津忠久なのだとか。

忠久の「忠」は、畠山重忠の一字を与えられたのだとも伝えられています。


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茅ヶ崎にはこんな伝説も。

(茅ヶ崎市)

懐嶋山の碑は、源頼朝と丹後局との間に生まれたという島津忠久の胎盤が埋められたという場所に建てられています。

「えな塚」(胞衣塚)と呼ばれてきました。

伝説によると・・・

丹後局が自分の子を身籠ったことを北条政子に知られた頼朝は、比企能員に命じて丹後局を大庭景能邸に預けました。

そして、丹後局は頼朝が建てた桜屋敷に移って男子を出産。

三郎と名付けられたそうです。

7歳になった三郎は1185年(文治元年)6月15日、鶴岡八幡宮で頼朝と対面。

そのとき「忠久」と名乗ったのだとか。


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鎌倉の源頼朝墓は、江戸時代に島津忠久の子孫・重豪が建てたものと伝えられています。

重豪は、反感を抱いていた徳川幕府に対し、頼朝の墓を建てることで、その「家柄」を示したともいわれています。

頼朝墓の東の山裾には、重豪が頼朝墓とともに整備した島津忠久の墓があります。




鎌倉検定


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