別冊『鎌倉手帳』




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2017年11月22日水曜日

五代執権・北条時頼の死

1263年(弘長3年)11月22日、北条時頼が最明寺の北の屋敷で亡くなりました。

37歳でした。


『吾妻鏡』によれば・・・

時頼は臨終に際し、衣袈裟を身に着け、縄床に上がって坐禅をくみ、辞世の頌(じゅ)を作ったといいます。

「業鏡(ごうきょう)高く懸(か)く 三十七年 一槌(いっつい)に打碎して 大道担然(たんねん)たり」

(この世の善悪をうつしとる鏡(業鏡)のように、邪悪を正すことに専念した37年間、今では一槌のもとに打ち砕いて、人の踏み行うべき道が平坦に続いている。)


木造北条時頼坐像
(国重文)


時頼は、1227年(嘉禄3年)5月14日、北条時氏の次男として誕生します。

母は松下禅尼、兄は四代執権の北条経時


1246年(還元4年)3月23日、重病となった兄経時から執権の地位を譲られます。


執権就任から2ヶ月後の5月25日、前将軍藤原頼経をおしたてて幕府の実権を握ろうとしていた名越光時を失脚させ、7月11日には、頼経を京都に送還しています(宮騒動)。

翌1247年(宝治元年)6月5日には、安達氏の後援を得て三浦泰村を滅ぼし(宝治合戦)、同年7月27日には、北条重時を連署として、北条氏への権力集中を成功させます。

(参考:北条泰時死後の政局と北条時頼~宝治合戦~


一方で、京都大番役の負担を軽減するなど一般御家人を保護する政策を打ち出し、1249年(建長元年)12月9日には、裁判の迅速化をはかるため「引付」(ひきつけ)を設置しています。


時頼が執権時の将軍は・・・?

時頼が執権に就任した当時の将軍は、藤原頼嗣(頼経の子)でした。

しかし、反北条(執権)勢力に利用されるようになった頼嗣は、1251年(建長3年)、鎌倉から追放されます。

(参考:鎌倉幕府四代将軍・・・藤原頼経

そして、1252年(建長4年)4月、後嵯峨上皇の皇子宗尊親王が鎌倉に下向し、六代将軍に就任しています。以後、鎌倉幕府の将軍は親王がその地位に就くこととなります(親王将軍)。



建長寺は、1253年(建長5年)に建立されました。

開山は蘭渓道隆、開基は北条時頼


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

1256年(康元元年)11月22日、時頼は病気を理由に執権を辞します。

翌日には、最明寺で蘭渓道隆を戒師として出家し、覚了房道崇と称します。

執権職は一族の北条長時に譲られました。

しかし、これは子時宗が幼少のため、その代理として長時に譲られたもので、幕府の実権は時頼が握り続けます。

こうして鎌倉幕府の政治は、執権政治から北条得宗家による専制政治へと変化していきました。

(参考:得宗専制政治を確立した北条時頼~明月院~


北条時頼墓
(明月院)


出家からちょうど7年後の1263年(弘長3年)11月22日、時頼はこの世を去ります。


『吾妻鏡』は時頼について、

「平生から武道をもって君を助け、

仁義を施して民を憐れみ、

天道の理にかない、

人望があった」

と伝えています。


また、臨終に際しては、

「手には定印(じょういん)を結び、辞世の頌(じゅ)を唱えて即身成仏のめでたいしるしを示したことは、神仏の再誕である」

と伝えています。


確かに時頼は、北条氏による政治の全盛を築きました。

質素倹約の伝説や廻国伝説も、北条氏の黄金時代を築き上げたからこそ残されている伝説なのでしょう・・・。



塑像北条時頼坐像
(明月院)


北条時頼の墓
(伊豆の国市・最明寺)

伊豆の国市にある最明寺には、北条時頼の遺骨が分骨されているだと伝えられています。


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