別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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京都・奈良・平泉・鎌倉などの寺社・歴史・人物・伝説・文化・自然・花などの情報をお伝えします。


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2024年7月24日水曜日

鹿苑寺の舎利殿(金閣)と鹿王院の舎利殿


金閣寺・舎利殿


鹿苑寺は、足利義満が営んだ山荘「北山殿」をはじまりとしています。

1408年(応永15年)、義満が亡くなると夢窓国師を開山とする禅寺となりました。

金箔が貼られた舎利殿が「金閣」と呼ばれることから、寺院全体が「金閣寺」と呼ばれています。




嵯峨嵐山にある鹿王院は足利義満が創建した寺。

鹿苑寺の舎利殿(金閣)は、鹿王院の舎利殿を参考に建てられたのだとか。

参考までに、鹿王院の舎利殿に納められているのは、鎌倉幕府三代将軍の源実朝が宋から請来したと伝えられる仏牙舎利。





奈良京都

歴史めぐり源頼朝

源義経をめぐる京都








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祇園祭

京都祇園:八坂神社の神輿


八坂神社


紫式部

清少納言


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八坂神社の神輿~祇園祭で渡御する三基の神輿~




八坂神社の祭神は素戔嗚尊・櫛稲田姫命・八柱御子神。

中央の六角形の神輿が素戔嗚尊(スサノヲノミコト)。

右の四角形の神輿が后の櫛稲田姫命(クシイナダヒメノミコト)。

左の八角形の神輿が素戔嗚尊と櫛稲田姫命の八人の子八柱御子神(ヤハシラノミコガミ)。





祇園祭では、7月17日の夕刻に三基の神輿が八坂神社を出御。

7月24日まで四条の御旅所に留まります。



八坂神社は、明治の神仏分離まで祇園精舎の守護神とされる牛頭天王を祭神としていたことから、「祇園神社」「祇園社」「祇園感神院」などと呼ばれていました。

京都三大祭の一つ祇園祭は八坂神社の祭礼です。




祇園祭


京都祇園:八坂神社の神輿


祇園八坂神社


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2024年7月23日火曜日

因幡堂平等寺~一条天皇が信仰した寺と猫のお守り~




平等寺は、因幡堂・因幡薬師の名で親しまれている寺。

一条天皇が勅願寺とした薬師如来の霊場です。

頭痛に悩んでいた後白河上皇は、因幡薬師のお告げで頭痛を治すことができたのだとか。



2022年2月22日、因幡堂で授与されることになったのは「六猫守り」。

六猫(むびょう)=無病なのだとか。

参考までに、因幡薬師を信仰した一条天皇は愛猫家。

一条天皇の中宮・藤原定子に仕えた清少納言は『枕草子』に、一条天皇の飼い猫だった「命婦の御許」(みょうぶのおとど)のことを書いています。








一条天皇の飼い猫は「いみじうをかし」



藤原定子


藤原彰子


藤原道長









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紫式部


清少納言



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日本に中国の禅を伝えた蘭渓道隆


建長寺開山忌


我が国初の禅の専門道場・建長寺を開いた蘭渓道隆は、中国宋の禅僧。

宋で修行していた泉涌寺の月翁智鏡との縁から、1246年(寛元4年)に宋から商船に乗って日本(筑前博多)に渡ってきました。

博多の円覚寺は道隆が開いたのだと伝わります(現在は聖福寺塔頭)。

来日後、円覚寺に留まって布教活動をしていました。


泉涌寺

翌年、月翁智鏡に招かれて上洛。

泉涌寺の来迎院に滞在しますが、旧仏教で固められた京都には活躍の場はなく、智鏡の勧めで鎌倉へ下ります。


壽福寺

鎌倉の地を踏んだのは、1248年(宝治2年)頃のことといわれています。

仮の住まいにしたのが、我が国臨済宗の開祖栄西が開いた壽福寺でした。


常楽寺

やがて、壽福寺の道隆のことを知った五代執権北条時頼は、道隆を常楽寺に移して禅の道場を開きます。

そのため、常楽寺は「建長寺の根本」といわれています。


建長寺

1253年(建長5年)、時頼建長寺を創建。

道隆は開山に迎えられました。


修禅寺

道隆は、元(中国)の密偵との疑いをかけられ伊豆に逃れた時期もあります。

そのときに住したのが修禅寺でした。

修禅寺は真言宗の寺でしたが道隆が住したことで臨済宗に改宗されました。

(※のちに韮山城主の北条早雲が曹洞宗の寺として再興。)


その後、壽福寺、禅興寺(現在は支院の明月院のみ。)などに住し、京都建仁寺にも住しました。


明月院

アジサイで知られる明月院は、道隆が開いた禅興寺の支院。

禅興寺は、八代執権北条時宗が父時頼の最明寺を再興して創建しました。


建仁寺

建仁寺は、源頼家の援助によって創建された京都最古の禅寺。

開山は栄西

建仁寺西来院

建仁寺の塔頭西来院は、建仁寺十一世となった道隆が開いた寺。


東光寺仏殿

叡山僧徒の反抗にあって甲斐に流されたこともありました。

東光寺の庭園は道隆の作庭と伝えられています。


建長寺西来庵

1278年(弘安元年)4月、建長寺に戻った道隆は、その年の7月24日に没しています。

建長寺の塔頭西来庵は道隆の塔所。








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建長寺開山忌


けんちん汁

影向の松


五代執権北条時頼


建長寺



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2024年7月21日日曜日

一帝二后と藤原定子の崩御


1000年(長保2年)2月25日、前年一条天皇に入内した藤原道長の長女・彰子は皇后となります。

一条天皇の皇后には、彰子より先に兄道隆の娘・定子がいましたが、彰子が皇后となったことで、定子は皇后宮、彰子は中宮と呼ばれるように。
 
ここに、一人の天皇が二人の皇后を持つ一帝二后が成立し、以後、皇后の定員は2名となったのだとか・・・


この年の12月15日、皇后宮・定子は第二皇女・媄子内親王を出産しますが、翌16日に崩御(24歳)。

鳥辺野に葬られました。

前年に誕生した第一皇子の敦康親王は、藤原行成の奏上により彰子が養母となり、生まれたばかりの媄子内親王は、藤原詮子の養女として育てられています。

定子の妹・御匣殿が脩子内親王・媄子内親王・敦康親王の養育を託されていたとも。





1000年(長保2年)12月16日に崩御した一条天皇の皇后・藤原定子が葬られたのは鳥戸野陵

本人の希望により土葬されています。


定子はこの歌を遺していました。

「煙とも雲ともならぬ身なれども草葉の露をそれとながめよ」

(煙とも雲ともならない我が身ですが、草の葉の露を我が身と思って下さい)


定子の死から11年後の1011年(寛弘8年)6月22日、一条天皇が崩御します。

一条天皇は死の3日前に

「露の身の仮の宿りに君を置きて家を出でぬることぞ悲しき」

(露のようにはかない身のかりそめに宿にあなたを残して出家してしまう事は悲しい)

と詠んだのだそうです。

この歌の君とは、中宮の藤原彰子のことと考えられますが、定子のこととする説もあります。



定子の陵墓からは京都タワーが見えます。




藤原定子


藤原彰子


藤原道長









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