別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




okadoのブログは、『中世歴史めぐりyoritomo-japan』の別冊。
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2024年11月1日金曜日

源氏物語の最後の十帖~宇治十帖~


紫式部光源氏を主人公とする『源氏物語』の続編「宇治十帖」を1010年(寛弘7年)頃から書き始めたとも言われます。

ただ、「宇治十帖」が書かれた時期は不明で、紫式部ではなく娘大弐三位(賢子)が書いたとする説などがあるようです。


「宇治十帖」は、光源氏が亡くなった後の物語で、美しいと評判の匂宮、そして、美しい姫君の大君中の君浮舟の悲しい恋物語。


は光源氏の次男(実は柏木女三の宮との不義の子。)。

匂宮は光源氏の孫(母は明石の中宮)。

大君中の君浮舟は光源氏の異母弟八の宮の娘。

「宇治十帖」には、これらの登場人物の恋愛と悲しい運命が描かれています。



宇治十帖


源氏物語










☆ ☆ ☆ ☆ ☆


紫式部


藤原道長

藤原彰子


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比叡山で石を投げつけられた藤原道長


1012年(寛弘9年)正月、藤原道長の三男顕信が、突然、出家してしまいました。

5月に比叡山で受戒が行われますが、道長も参列します。

ただ、道長は下馬せず騎馬のまま比叡山を登ってしまいました。

そのため、道長は僧や大衆から石を投げつけられてしまったのだとか。

その後・・・

道長は重病となります。

比叡山を騎馬で登ったので、山王権現(日吉大社)の祟りにあったという噂が流れたのだとか。


📎比叡山で投石され、重病になった藤原道長~顕信の受戒と山王権現の祟り~




比叡山延暦寺東塔

延暦寺は、最澄によって開かれた天台宗総本山。



日吉大社

日吉大社は平安京の鬼門の守護神、延暦寺の守護神として崇敬された社。




紫式部


藤原道長

藤原彰子









☆ ☆ ☆ ☆ ☆


源氏物語

光源氏


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宇治十帖


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2024年10月30日水曜日

三条天皇の「夜半の月」と藤原道長の「望月」





三条天皇藤原道長

権力を争ったこの二人は、それぞれに夜空に浮かんだ美しい月を見ました。

しかし、その眺め方と思った事は対照的でした。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


三条天皇冷泉天皇の第二皇子。

母は藤原兼家の長女・藤原超子藤原道長の姉)。

東宮(皇太子)の時代が長く、1011年(寛弘8年)に一条天皇から譲位されたときは30代の半ば。

この時代は摂関政治の最盛期。

天皇が朝廷の政務に要望をしないことが前提で、幼い天皇が望まれていた時代。

しかし、三条天皇は人生の経験を積んで世の中の道理が最もよくわかる年ごろ。

絶大な権力を誇っていた外叔父の藤原道長と対立することに。

1014年(長和3年)、三条天皇は眼病を患いますが、自分の娘・彰子が生んだ敦成親王を即位させたい道長は、それを理由に退位を迫ります。

内裏の焼亡も重なって道長との権力闘争に疲れ果てた三条天皇は、1016年(長和5年)、美貌だったという皇后宮・藤原娍子が生んだ敦明親王を皇太子とすることを条件に譲位。

退位する直前に詠んだのが

心にも
あらでうき世に
ながらへば
恋しかるべき
夜半の月かな


「心ならずもつらい現世で生き長らえているならば・・・

さぞかしここで眺めた夜更けの月が恋しく思いだされることであろう」

「死んでしまいたい」と思いながら詠んだ歌のようですが、三条天皇は翌年に崩御。


一方、道長は・・・

三条天皇の譲位により、外孫で8歳の後一条天皇が誕生すると、摂政となって権勢を奮い、敦明親王に皇太子を辞退させ、後一条天皇の弟・敦良親王を皇太子とすることに成功。

そして、1018年(寛仁2年)、四女の威子が後一条天皇の中宮(皇后)となると・・・

三后のすべてを我が娘で占めるという前代未聞の偉業を達成(太皇太后は長女の彰子・皇太后は次女の妍子)。

詠んだ歌が

この世をば
わが世とぞ思ふ
望月の
かけたることも
なしと思へば


「この世で自分の思うようにならないものはない。

満月に欠けるもののないように・・・」





夜半の月


望月の歌



紫式部


藤原道長

藤原彰子









☆ ☆ ☆ ☆ ☆


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皇后宮娍子の立后の儀と藤原道長


1012年(寛弘9年)、藤原道長三条天皇に入内していた次女の妍子を中宮としましす。

一方、道長と不和だった三条天皇は、妍子より先に入内して第一皇子の敦明親王を生んでいた娍子を皇后宮としました。

これにより、絶大な権力を誇っていた道長と天皇親政を目指す三条天皇との対立が決定的となります。


娍子の立后の儀式の日・・・

道長

「同日は中宮妍子の参内の日である」

として出席せず、多くの公卿が道長に従って妍子の御所となっていた東三条殿に行ってしまったのだとか。

道長の嫌がらせによって、儀式に参列したのは、娍子の弟・藤原通任と藤原実資藤原隆家・藤原懐平の公卿のみだったらしい。


📎皇后宮娍子の立后と中宮妍子の参内~三条天皇と藤原道長の対立~



紫式部


藤原道長

藤原彰子









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