別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




okadoのブログは、『中世歴史めぐりyoritomo-japan』の別冊。
京都・奈良・平泉・鎌倉などの寺社・歴史・人物・伝説・文化・自然・花などの情報をお伝えします。


2024年10月23日水曜日

2025年、鎌倉復興期の興福寺北円堂が再現される!東博:運慶 祈りの空間




興福寺北円堂の本尊・弥勒仏坐像は、2024年(令和6年)6月から奈良国立博物館文化財保存修理所内の工房で保存修理が行われています。



北円堂の弥勒仏坐像と無著・世親菩薩立像は、1212年(建暦2年)に仏師運慶らによって造立されたもので国宝。

弥勒仏坐像の修理は2025年(令和7年)までかかる予定で、終了後は無著・世親菩薩立像とともに東京国立博物館で開催される特別展「運慶 祈りの空間-興福寺北円堂」で展示されます。


興福寺中金堂

特別展では、中金堂に置かれている四天王立像(国宝)も展示されることとなっています。

中金堂の四天王立像は、かつて北円堂に安置されていた運慶作の像ではないかと考えられているものです。



興福寺は、1180年(治承4年)の平重衡による南都焼討で灰燼に帰しました。

「運慶 祈りの空間ー興福寺北円堂」では、鎌倉復興期の北円堂が再現されます。

会期は2025年9月9日から11月30日まで。




運慶











2024年10月19日から
鎌倉の伝運慶仏

2024年10月26日から
運慶展

2024年11月29日から
運慶~女人の作善と鎌倉幕府~


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行願寺で出家を決意した藤原道長の三男・顕信


1012年(寛弘9年)正月、藤原道長の三男・顕信は、行願寺の行円の教えに感銘を受け剃髪。

比叡山の無動寺で出家してしまいます。

道長や母の源明子は悲しんだといいますが、

何故・・・

前年12月、三条天皇は顕信を蔵人頭に任じること道長に打診しますが、道長は顕信が「不足の者」(能力不足の者)であるとして辞退。

父から「不足の者」という評価を受けた顕信は失望して行願寺の行円のもとを訪れたのだと言います。


📎藤原顕信~突然出家した藤原道長の三男~




行願寺は1004年(寛弘元年)に行円が開いた寺院。

一条天皇の勅願寺となりました。

西国三十三箇所の十九番。

御詠歌は花山法皇が詠んだ

「花を見て いまは望みも 革堂の 庭の千草も 盛りなるらん」

寿老神は都七福神の一つ。



紫式部


藤原道長

藤原彰子


一条天皇









☆ ☆ ☆ ☆ ☆


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2024年10月20日日曜日

一条天皇の遺詠歌~藤原定子の遺詠歌と源氏物語~


1000年(長保2年)12月16日、一条天皇は愛する皇后宮・藤原定子を亡くしました。

それから11年後の1011年(寛弘8年)、病となった一条天皇は6月22日に崩御。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


『栄花物語』によると、一条天皇は崩御の3日前に出家。

露の身の
仮の宿りに
君を置きて
家を出でぬる
ことぞ悲しき


と詠んだのだといいます。

「露のようにはかない身がかりそめに宿る現世に、あなたを残して出家してしまう事は悲しい」

歌の中の「君」とは、中宮の藤原彰子のことと考えられますが・・・

寵愛した定子のことという説も。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


『栄花物語』によると、定子は三首の歌を遺しました。

そのうちの一つが

煙とも
雲ともならぬ
身なれども
草葉の露を
それとながめよ


という歌。

「煙とも雲ともならない我が身ですが、草の葉の露を我が身と思って下さい」

一条天皇が詠んだ歌は、定子の歌に対応したものだったのかもしれません。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


『源氏物語』~賢木の巻~で光源氏

浅茅生の
露のやどりに
君をおきて
四方の嵐ぞ
静心なき


という歌を紫の上に贈りました。

「浅茅生に置く露のようにはかないこの世にあなたを置いてきたので まわりから吹きつける世間の激しい風を聞くにつけ、気ががりでなりません」


紫の上はこう返しました。

風吹けば
まづぞ乱るる
色変はる
浅茅が露に
かかるささがに


「風が吹くとまっ先に乱れて色変わりするはかない浅茅生の露の上に、糸をかけてそれを頼りに生きている蜘蛛のようなわたしですから」

一条天皇は、辞世の歌を詠むにあたって『源氏物語』を参考にしたのかもしれません。





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土葬を望んでいた一条天皇、しかし火葬に。


1011年(寛弘8年)6月22日、一条天皇が崩御。

生前、一条天皇は土葬を望み、父の円融天皇の御陵(円融天皇 後村上陵)の近くに葬られることを望んでいたのだといいます。

しかし・・・

藤原道長は火葬にしてしまいました。


一条天皇 火葬塚

一条天皇は左大文字山の山蔭で火葬され、遺骨は東山の円成寺に安置されました。

その後、金輪寺に埋葬する予定でしたが・・・

道長一条天皇の言葉を思い出したため・・・

そのまま円成寺に安置し、三年後に円融天皇の御陵あたりに埋葬することとなったのだといいます。

何故三年後なのか?

西方に大将軍があったため。

大将軍(金星の精)のいる所は万事にとって凶で、同じ方位に三年間留まるらしい。

そのため、三年塞がりの大将軍と呼ばれるのだとか。




しかし、遺骨が望みのとおり円融天皇の御陵の近くに埋葬されたのは、崩御後9年経った1020年(寛仁4年)6月16日のことでした。



📎一条天皇の火葬と埋葬


☆ ☆ ☆ ☆ ☆



1000年(長保2年)12月16日に崩御した一条天皇の皇后・藤原定子が葬られたのは鳥戸野陵

本人の望みにより土葬とされました。

もしかしたら一条天皇は、定子と同じように葬られたかったのかも。





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