源範頼は源義朝の六男。
源頼朝・源義経の異母兄弟。
遠江国蒲御厨(現在の静岡県浜松市)で生まれ育ったことから「蒲冠者」(かばのかじゃ)」と呼ばれました。
1180年(治承4年)8月、伊豆国で兄の頼朝が挙兵。
範頼がいつ参戦したかは不明ですが、『吾妻鏡』には1183年(寿永2年)2月の野木宮合戦に援軍として出陣していることが記録されています。
1184年(寿永3年)1月の木曽義仲追討では、弟の義経が宇治から、範頼が瀬田から攻めて義仲を滅ぼしました(粟津の戦い)。
平家追討では、1184年(寿永3年)2月の一ノ谷の戦いで平家軍を敗走させ、翌年3月には壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼして大きな功績を残しました。
しかし・・・
1193年(建久4年)5月に頼朝が催した富士裾野の巻狩りで起こった曽我兄弟の仇討ち事件をきっかけに謀反を疑われるようになってしまいます。
伊豆の修禅寺に幽閉された範頼は梶原景時らに攻められ自刃したのだと伝えられています。
ただ・・・
『吾妻鏡』には修禅寺に幽閉された後の範頼の記録はありません。
石戸宿の伝説では、範頼は修禅寺から石戸に逃れ、東光寺付近に隠れ住んでいたのだといいます。
範頼が持っていた杖が根付いたのが「石戸蒲ザクラ」(いしとかばざくら)なのだとか。
石戸蒲ザクラは、樹齢800年以上といわれ、国の天然記念物に指定されています。
根元には範頼のものと伝えられる墓塔。
石戸宿に隠れ住んだ範頼は1200年(正治2年)2月5日に病死。
戒名は明巌大居士といったのだといわれています。
東光寺
東光寺は、範頼が早世した娘・亀御前の供養のために阿弥陀堂を建立したことに始まるのだと伝えられています。
範頼と亀御前の位牌が保管されています。
石戸神社は、範頼の住居跡といわれる場所に建てられています。
2025年の北本さくらまつりは3月29日(土曜日)、30 日(日曜日)。
東光寺では、石戸蒲ザクラの根元に建てられていた板石塔婆(板碑)が公開されます。
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