『吾妻鏡』によると、1238年(嘉禎4年)3月23日、大仏堂の事始めがありました。
場所は深沢の里。
勧進僧は浄光。
5月18日、頭が上げられました。
1241年(仁治2年)3月27日、大仏殿上棟。
1243年(寛元元年)6月16日、開眼供養。
指導僧は大蔵卿僧正良信(勝長寿院別当)
勧進僧の浄光は、この6年間、身分に関係なく寄付を募って、都も地方も勧進したそうです。
ただ、『東関紀行』によると、このときの大仏は木像でした。
木造の大仏が完成してから9年後の1252年(建長4年)8月17日、金銅の大仏の鋳造が始まります。
何故、銅造の大仏を造り始めたのかは定かではありませんが、1247年(宝治元年)9月1日の大風で木造の大仏が倒壊してしまったからという説や、木造の大仏は金銅の大仏の原型だったという説があるようです。
1252年(建長4年)は、東大寺の大仏の開眼供養が行われた752年(天平勝宝4年)から500年。
金銅の大仏は、東大寺の大仏と同じものをという願いがあったのかもしれません。
しかし、金銅の大仏がいつ完成したのかは判っていません。
造立当初の鎌倉大仏には金箔が施されていた。
鎌倉大仏の印相は特徴ある密教系の阿弥陀定印。
定印は仏が瞑想に入っていることを示す印相。
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稲多の局の笠塔婆
『鎌倉大仏縁起』によると、
1195年(建久6年)、源頼朝は東大寺の大仏殿の落慶供養に参列するため上洛します。
その上洛には侍女の稲多の局も付き従っていました。
東大寺の大仏を観た頼朝は、「このような大像を東国にも建立して護持を祈る」ことを望んでいたそうです。
しかし、それを果たすことなく、亡くなってしまいます。
稲多の局は、頼朝の所願を果たすため鶴岡八幡宮に祈願。
深沢の里の総国分寺の傍らに庵を営んで資金調達に努力します。
北条政子も稲多の局に助力。
そして、四代将軍藤原頼経が浄光を勧進僧に命じたのだといいます。
浄光は遠江の人で、平重衡の南都焼討で灰燼と帰した東大寺の復興に努力した重源の高弟だったそうです。
こうして、1243年(寛元元年)に木像の大仏と大仏殿の供養が行われたのですが・・・
1247年(宝治元年)の大風で大仏殿が崩壊し、大仏も雨露にうたれて損壊してしまいます。
稲多の局は、金銅の大仏を鋳る大願をたてて、五代将軍藤原頼嗣に請い許されます。
1252年(建長4年)8月、六代将軍宗尊親王の外護によって金銅五丈の無量寿仏の大像が完成。
大殿・仁王門・十二楼も備わったそうです。
所願が成就した稲多の局は、翌年5月23日に亡くなったそうです。
笠塔婆の側面には「稲多野殿 建長五癸丑年五月二十三日」と刻まれています。
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満光院銅造阿弥陀如来立像
千葉県市原市で見つかった像で、鎌倉大仏造営の勧進を行った浄光の菩提を弔うために造立されました。
像には、文永11年(1274年)の刻銘があります。
『東関紀行』によると、浄光は遠江の人。
『鎌倉大仏縁起』によると、平重衡の南都焼討で灰燼に帰した東大寺を再興させた重源の高弟だったのだといいます。
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総国分寺の石柱
『鎌倉大仏縁起』によると、737年(天平9年)、聖武天皇の勅願により関東総国分寺として清浄泉寺が建立されたのだといいます。
奉行したのは染屋時忠。
開基は行基。
仁王門
鎌倉大仏(銅造阿弥陀如来坐像)を本尊とする高徳院の正式名称は「大異山高徳院清浄泉寺」。
中門
蓮弁
江戸時代中期のもので、台座の修復の際に鋳造されたもの。
大仏殿礎石
鎌倉大仏の周囲には、59個の大仏殿の礎石が残されています。
大わらじ
茨城県常陸太田市中野町の「松栄(まつざか)子供会」が奉納しているもの。
観月堂
朝鮮李王朝の月宮殿を移築したもの。
与謝野晶子歌碑
「かまくらやみほとけなれど釈迦牟尼は美男におわす夏木立かな」
長与専斎の碑
日本衛生行政の基礎を築き、鎌倉の発展に貢献した長与専斎の功績を長く伝えるために建てられたもの。
大仏切通の地蔵尊
大仏切通の峠に置かれていたもの。
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鎌倉大仏殿