別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2021年5月2日日曜日

挙兵を早めた和田義盛~三浦義村に裏切りと和田合戦~


(和田塚)


1213年(建暦3年)5月2日、和田義盛北条義時を討つために挙兵しますが、この挙兵は計画どおりだったのでしょうか?


『吾妻鏡』によると、挙兵前の3月19日、義盛邸には横山時兼が訪れています。

おそらく、打倒義時についての話し合いがなされたのではないでしょうか・・・

時兼は、武蔵国多摩郡横山荘の武将。

叔母が義盛の妻で、妹が義盛の嫡男常盛の妻だったのだといいます。

その時兼が義盛の応援に駆けつけたのは、5月3日の明け方でした。

そのことからすると、当初の挙兵の日は5月3日だったと考えられます。


では何故、5月2日に挙兵したのでしょう?

三浦義村の裏切りがあったからと考えられます。

『吾妻鏡』によると、義村は起請文まで書いて義盛に味方すると約束していましたが、直前になって裏切ったのだといいます。

「先祖の三浦為継は、八幡太郎義家に従い、奥州で武衡・家衡を征伐して以降、源氏から恩禄を賜ってきた。

一族の義盛に味方して、先祖代々の主君に矢を射れば天罰を免れることはできない」

という理由からなのだといいますが・・・

義村は、以前から義盛への不満を抱いていたものと考えられます。

それは、三浦宗家でもない一族の義盛が侍所の別当として勢力を誇っていたから・・・

『愚管抄』は、義盛を「三浦の長者」と伝えていることから、京都では三浦一族の長は義盛とみられていたようです。

こうしたことから、義盛を邪魔に思っていた義時義村は利害が一致していたということなのかもしれません。


そして、義村の裏切りを知った義盛は・・・

義時を討つためには、将軍実朝を擁して戦う必要があります。

そのためには、警護が手薄のうちに御所を襲撃して実朝の身柄を確保しようと考えたのかもしれません。

しかし、叶いませんでした。

『吾妻鏡』によると、義盛が御所を襲撃すると、実朝北御門から頼朝の法華堂に避難したのだといいます。

義盛の当初の計画では、義村北御門を固めることになっていました。

したがって、義村の裏切りがなければ、実朝の身柄を確保できた可能性が高かったということ・・・。



和田合戦


和田義盛

三浦義村

北条義時

源実朝







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