別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2026年3月15日日曜日

浅井家最強の家臣 遠藤直経~信長を暗殺しようとした謀将~


『繪本豐臣勲功記』
(国文学研究資料館所蔵)
出典: 国書データベース


1565年(永禄8年)の永禄の変で、室町幕府の十三代将軍足利義輝が殺害された後、室町幕府再興のため越前の朝倉義景を頼っていた義輝の弟義昭は、1568年(永禄11年)、義景を見限り岐阜の織田信長を頼ります。

信長は義景を将軍とするため上洛を計画しますが、上洛を果たすためには北近江の小谷城を本拠としていた浅井長政との同盟は不可欠でした。

信長は自身の妹であるお市の方を長政に嫁がせ、義兄弟の契りを結ぶことで強固な協力関係を築こうとします。


『真書太閤記』などによると・・・

1568年(永禄11年)8月7日、信長は上洛の前に長政と対面するため浅井領の佐和山へ赴きます。

佐和山城で饗応を受けた信長は、義昭を擁して上洛することを相談したようですが、長政の重臣・遠藤喜右衛門(直経)は、信長の野心をいち早く見抜き、浅井家にとって危険な存在である信長を今のうちに毒を用いて暗殺すべきと考えます。

その事を長政に相談しようとしますが、長政は座を立とうとしなかったため、密かに小谷へ帰り、長政の父久政にに謀略の許可を得ようとします。

しかし、久政に「人の道に反する。たとえ成功したとしても信長を恐れて毒を盛ったとなれば弓箭の家の恥」と断られてしまったのだか。

それでも・・・

信長を殺さなければ後々後悔することになると思い定めていた喜右衛門は、佐和山に戻ると信長と刺し違えようとしますが、木下藤吉郎の機転によって阻止されたのだと伝えられています。

その後、長政とお市の方の婚儀が執り行われますが・・・

喜右衛門は、「成菩提院に宿泊している信長を討つべき」と長政に進言したが受け入れられなかったとも伝えられています。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


1568年(永禄11年)9月7日、織田信長は、足利義昭を擁して岐阜城を出発。

上洛の従軍要請を拒んだ六角義賢・義治父子を破り、9月26日入京。

義昭の兄義輝を殺害した三好勢を掃討し、10月には義昭を征夷大将軍に就任させました。

当初、信長と義昭は協力関係にありましたが、次第に信長が義昭の権限を制限するようになり対立。

義昭は将軍の権威を用いて各地の有力大名を動かすようになります(信長包囲網)。

信長と同盟を結んでいた浅井長政も、信長が浅井氏旧縁の朝倉氏を攻撃したことで義昭が呼びかけた打倒信長の共同戦線に加わり、信長を窮地に追い込みますが・・・

武田信玄の急死などにより包囲網が崩壊すると、信長は総攻撃を開始。

1573年(天正元年)、朝倉氏が滅亡、その直後に小谷城も落城し、長政は自害して浅井氏は滅亡しています。

信長を危険な存在と見抜いていた遠藤喜右衛門は・・・

姉川の戦いで自軍の敗戦が色濃くなると、信長軍の武将になりすまし、自身が討取ったとする武将の首を持参して信長の本陣に潜入し、信長を討ち取ろうとしました。

しかし、寸前のところで信長の家臣・竹中重矩に見破られ、討取られたのだと伝えられています。


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大和郡山城


大納言塚


豊臣秀長


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