1195年(建久6年)2月14日、東大寺大仏殿の落慶供養参列のため鎌倉を発った源頼朝。
3月4日には、『平治物語』で源義経が元服したと伝えられる近江国の鏡の宿を出発しますが・・・
馬を進めて瀬田橋まで来ると、橋の向こうに比叡山の僧兵たちが群集しています。
橋の東側で馬を止めた頼朝は挨拶すべきどうか考えますが、しばらくして、橘公業を呼んで僧兵たちのもとへ説明に行かせます。
公業は僧兵たちの前にひざまづいて、
「鎌倉の将軍が、東大寺大仏殿の落慶供養参列のため上洛するところですが、この集まりはどのようなことなのでしょうか。
将軍は不安を感じています。
ただ、武士の作法としては、このような所で下馬の礼を尽くすことはいたしません。
したがって、乗馬のまま通りますので、咎めだてのないように」
と伝えます。
その返事を聞く前に、頼朝は馬を進めていきます。
僧兵たちの前に来ると、弓を取り直して少し厳しい顔をすると、僧兵たちは頭を下げたのだとか。
かつては、「瀬田橋を制するものは全国を制す」と言われ、京都防衛上の重要な橋でした。
1184年(寿永3年)1月20日、源頼朝が木曽義仲を追討する際には、源範頼が瀬田から、源義経が宇治から京へ入り、義仲を粟津で滅ぼしています。
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