母は清盛の正室(継室)の時子。
1155年(久寿2年)誕生。
院号は建礼門院。
安徳天皇は高倉天皇と徳子の子。
1178年(治承2年)11月12日誕生。
1171年(承安元年)、高倉天皇が元服すると徳子の入内の話が進められます。
徳子は12月16日に女御となり、翌1172年(承安元年)2月10日には中宮となりました。
なかなか子に恵まれなかった徳子ですが、1178年(治承2年)11月12日に皇子を出産します。
皇子の名は言仁。
1180年(治承4年)2月21日、高倉天皇が数え3歳の言仁親王に譲位して院政を開始、4月22日には安徳天皇が即位します。
しかし、安徳天皇が即位した頃は、徐々に反平家の動きが大きくなっていた頃でした。
4月9日、後白河法皇の第二皇子以仁王が源頼政と謀って、全国の源氏に平家打倒の令旨を発し、5月には自らも挙兵します。
以仁王の挙兵は失敗に終わりますが、8月17日に伊豆国の源頼朝が挙兵。
10月20日には、平維盛を大将とする平家軍が富士川の戦いで敗走させられています。
その後、延暦寺・園城寺・興福寺などの反平家の寺社勢力も活発な動きを見せ始め、反乱は全国的な展開となっていきました。
そうした状況の中、1181年(治承5年)正月14日、高倉上皇が崩御。
閏2月4日には清盛が死去。
清盛の死後、なんとか都にとどまっていた平家一門でしたが、1183年(寿永2年)5月には木曽義仲との戦いに敗れ、7月25日、とうとう安徳天皇と三種の神器を奉じて都を落ちることとなります。
安徳天皇の母・徳子も都落ちに同行しています。
その後、一ノ谷、屋島の戦いで平家一門は敗れ、1185年(元暦2年)3月24日、壇ノ浦で滅亡しました。
安徳天皇は按察局に抱かれて入水。
数え年8歳(満6歳4か月)でした。
徳子も海に飛び込みますが、助けられ都に戻っています。
その後、何の罪にも問われなかった徳子は出家。
5月に吉田の律師実憲の坊に入り、9月には大原の寂光院に入って、平家一門と安徳天皇の菩提を弔いながら終生を過ごしたのだそうです。
『吾妻鏡』によると、1187年(文治3年)2月1日、源頼朝は、平宗盛の所領だった摂津国真井と島屋の二庄を徳子に与えています。
1213年(建保元年)12月13日崩御。
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