かつて、鶴岡八幡宮は神仏混淆の宗教施設でした。
しかし、1868年(明治元年)、明治政府は神仏分離令を出します。
それに伴って全国で廃仏毀釈の運動が起こりました。
鶴岡八幡宮でも1870年(明治3年)に薬師堂、護摩堂、大塔、経蔵、仁王門が破壊されます。
仁王門がある頃の参道
大塔
下拝殿と経蔵(左奥)
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~主な仏像の行方~
仁王門に安置されていた仁王像は、壽福寺に移され、現在も壽福寺の本堂に安置されています。
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二十五坊の一つ等覚院の本尊だったといいます。
松源寺に移された後、壽福寺に移されました。
現在は青蓮寺に移され本尊として安置されています(鎖大師)。
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法華堂(現白旗神社(西御門))に安置されていました。
現在は西御門の来迎寺(西御門)に安置されています。
宅間浄宏作と伝わる地蔵菩薩像も来迎寺に移されています。
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(東京国立博物館蔵)
旧白旗神社の御神体だったといわれています。
東京国立博物館に所蔵されている像がそれあろうといわれています。
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扇ヶ谷にあった智岸寺の像で、智岸寺廃絶後、正覚院に安置されていました。
現在は瑞泉寺の地蔵堂に安置されています(どこも苦地蔵)。
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もと神宮寺の本尊だったといわれる仏像です。
壽福寺に移されますが、現在は鎌倉国宝館に寄託されています
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白旗神社の手水舎の水盤には蓮弁が彫刻されています。
鶴岡八幡宮が神仏習合の宗教施設だった頃の名残です。
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江戸期までの浅草寺の二天門は、豊岩間戸命(とよいわまどのみこと)・櫛岩間戸命(くしいわまどのみこと)の二神が安置され「矢大神門」(やだいじんもん)と呼ばれていそうです。
明治の神仏分離によってこの二神が廃され、鶴岡八幡宮の経蔵にあった二天を安置して「二天門」と改称されたのだといいます。
ただ、鶴岡八幡宮の二天は、戦時中に修理先で焼失しまったのだそうです。
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(あきる野市)
神仏分離までは、鶴岡八幡宮の薬師堂にあった薬師三尊像。
松源寺、壽福寺を経て現在はあきる野市の新開院に安置されています。。
十二神将像も同じです。
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(横須賀市)
源頼朝は、伊豆日金山の日金地蔵を信仰し、鎌倉の松源寺にその模像を安置したのだといいます。
松源寺にあった日金地蔵は、長谷寺に移された後転々とし、現在は横須賀市の東漸寺に安置されています。
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(東京人形町)
後方の頭部のみの仏像が鉄観音。
鎌倉の扇ヶ谷にあった新清水寺の本尊だったもので、鉄ノ井から頭だけが掘り出され、神仏分離までは鉄ノ井の前にあった鉄観音堂に安置されていました。
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神仏分離令が出されると、鶴岡八幡宮には、「僧尼不浄の輩入るべからず」と掲示されたといいます。