『吾妻鏡』によると・・・
1224年(貞應3年)6月12日、二代執権・北条義時が病に倒れ、翌13日に死去。
18日に葬儀が行われ、源頼朝の法華堂の東の山上が墓とされました。
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北条泰時が三代執権に就任
6月26日、六波羅探題北方を務めていた長男の北条泰時が京都から鎌倉へ戻ってきました。
この日は由比ヶ浜辺りに泊り、翌27日に鎌倉の屋敷に入っています。
6月28日、北条政子の御所へ行った泰時は、三代執権に任命されています。
叔父の北条時房が後見役に付けられました。
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伊賀氏の変
義時の死後、後妻・伊賀の方(伊賀朝光の娘)と弟の伊賀光宗は、北条政村を執権とし、一条実雅を将軍に据えようとしていたそうです。
※北条政村は伊賀の方が産んだ子
※一条実雅は公卿で伊賀の方の娘婿
『吾妻鏡』によると・・・
7月5日、伊賀光宗兄弟が何度も三浦義村の屋敷へ出入りし、人々は何か密談をしているのに違いないと怪しみました。
夜になると伊賀兄弟が義時邸に集まって「この事を変えてはならない」と誓っていました。
それを聞いていた女中は何の事なのかわかりませんでしたが、その様子を泰時に伝えたのだそうです。
7月17日深夜、北条政子は三浦義村邸に赴き、義村にこう忠告します。
「政村と光宗らがこの屋敷に出入りして、何か密談をしていると噂があります。
これはどういうことなのでしょう?
目的がわかりません?
もしや泰時を陥れるつもりなのか?
去る承久の乱での関東が勝利は、天運でもありましたが、半分以上は泰時の功績です。
義時の跡を継ぐのは泰時です。
泰時がいなくなれば、人々は長く争うことになるでしょう。
義村は政村の烏帽子親。
共謀を疑わないわけにはいきません。
両人とも何もせぬように」
義村が「存ぜぬこと」と答えると、政子は、
「政村に助力して世を乱そうとするのか、あるいは、平和のために尽くすのか、早く決断しなさい」
と重ねて忠告します。
すると義村は
「政村に逆心はありませんが、光宗は反逆の考えをもっていますので、止めさせましょう」と誓ったのだとか。
7月28日、三浦義村は北条泰時に会って
「故大夫(義時)の時には、忠義の私に親切にも四男政村さま元服の烏帽子親にしてもらいました。
私の息子泰村は猶子にして頂きました。
その恩を思うと、泰時さまと政村さまのどちらに着くか迷っていました。
ただ、心から願うことは平和な世。
伊賀光宗には、少々の企てがあったようですが、私が諫めたので敵対することをやめました」
と話ました。
泰時は喜びも驚きもせず
「わたしは、政村に害を加えようとは思っていません。
何をもって敵対してると思うのでしょうか」
と返したのだとか。
7月30日夜、御家人が皆旗を立て、鎧兜で競うように走り回るという騒動がありましたが、明け方には収まりました。
閏7月1日、北条政子は三浦義村に度々使いを出し反乱者を鎮めるよう伝えてきたそうです。
しかし、前夜には騒動が起こります。
三寅(九条頼経)とともに泰時邸を訪れていた政子は、義村を呼び出して、こう言います。
「私は三寅を抱いて泰時邸にいます。
義村もここにいるように」
義村は断ることができなかったそうです。
葛西清重・中条家長・小山朝政・結城朝光らの宿老には、北条時房が言い聞かせています。
「三寅が幼い間は、下々の反逆を抑えるのは難しい。
私は長生きしている。
特別な根拠はないが、各々が生存し寄り集まることは、亡き頼朝さまの願う所。
その命に従い心と行動を一つにしていれば、誰が蜂起しようが何ともなこと」
閏7月3日、伊賀光宗が一条実雅を関東の将軍にしようとしていることが露見したため、北条時房と老体の大江広元も出席して、北条政子の御前で処分がなされました。
義時の後妻・伊賀の方と兄の伊賀光宗は流罪。
実雅は身柄を京都へ移し、朝廷に裁きを任せる事になりました。
その他は、たとえ味方して仲間に入っていたという疑いがあっても、罪を問わないこととされています。
その後・・・
7月23日、一条実雅が京都へ出発。
7月29日、伊賀光宗の政所執事を解任し、領地52か所を没収。
光宗は、妻の叔父・二階堂行村に預けられました。
8月16日、一条実雅が京都に到着。
8月29日、北条政子の命により伊賀の方が伊豆国北条郷に幽閉され、伊賀光宗は信濃国へ流罪。
弟の朝行と光重は九州へ流罪。
10月10日、一条実雅が越前国へ流罪と決定。
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