別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2020年6月22日月曜日

鎌倉武士の鑑「畠山重忠」の最期~潔く戦うことが武士の本懐~


畠山重忠
(畠山重忠公史跡公園:深谷市)


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

『吾妻鏡』によると・・・

1204年(元久元年)10月14日、源実朝の妻となる坊門信清の娘を迎えるため、北条政範・結城朝光・千葉常秀・畠山重保(畠山重忠の嫡男)らが上洛。

11月4日の晩、平賀朝雅の六角東洞院の屋敷で酒宴が催されます。

その席で平賀朝雅と畠山重保が口論になりますが、集まった者がなだめたことで収まったのだそうです。

その翌日、北条政範が死去。

政範は、北条時政と愛妻・牧の方の子。

6日、東山辺りに葬られました。

※平賀朝雅と畠山重保の口論と、北条政範が死は畠山重忠の乱へとつながっていきます。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

~平賀朝雅~

新羅三郎義光を祖とする源氏。

平賀義信の次男。

母は源頼朝の乳母・比企尼の三女。

北条時政の娘を正室とし、京都守護を務めていました。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

『吾妻鏡』によると・・・

1205年(元久2年)4月になると、鎌倉中が騒がしくなり、近国の者が武具を整えているとの噂が流れます。

4月11日には、北条時政稲毛重成を鎌倉へ呼んでいます(重成は時政の娘を妻としていました。)。

ただ、5月に入ると、騒がしかった鎌倉も、多くの御家人が帰国したことで静さを取り戻したようですが・・・。

6月20日、稲毛重成に呼ばれた畠山重保が武蔵国から鎌倉に到着。

6月21日、平賀朝雅の讒訴を受けていた北条時政の後妻・牧の方は、畠山重忠父子の誅殺を企てます。

そして、北条時政北条義時北条時房を呼んでこの計画を話しました。

義時と時房は、

畠山重忠は治承4年の源頼朝様の挙兵以来、忠義を尽くしています。

源頼朝様もその志を鑑みて、息子らを守護するよう丁寧に頼んでいます。

とりわけ、源頼家様の味方だったにも関わらず、比企能員との戦では我々に味方して忠義を尽くしてくれたのは、親子の義理を重んじたからです(畠山重忠の正室は北条時政の娘)。

それなのに何を理由に謀反を企てるのでしょうか・・・

もし、重忠の度々の勲功を無視して征伐すれば後悔することになります。

事の真偽を確認してからでも遅くはありません」

と主張しました。

北条時政は何も言えずに席を立ったのだといいます。

その後、牧の方の使いで北条義時館にやってきた牧時親は、牧の方の伝言を伝えます。

畠山重忠の謀反はすでに明白。

将軍のため、世のために時政殿が伝えたにもかかわず、貴殿が申されることは、重忠に代わって悪だくみをごまかそうとしている。

私が継母だから讒言者にしようというのか・・・」

これによって北条義時は考え直すことにしたようです。


畠山重忠邸跡
(鎌倉)


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

翌6月22日午前4時頃、謀反人を誅するためにの軍兵が由比ヶ浜へ走っていきます。

それを聞いた畠山重保が従者三人を連れて由比ヶ浜へ向うと、北条時政の命を受けた三浦義村が佐久間太郎らを使って重保を取り囲みます。

重保も戦いますが多勢に無勢。

主従ともども誅殺されました。


畠山重保の墓
(鎌倉)


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

一方、畠山重忠が鎌倉へ向かっているとの噂が流れると、その途上で誅殺するよう命令が下り、北条義時らが出陣します。

大手の大将軍は北条義時。

先陣は葛西清重

後陣は千葉常秀、大須賀胤信、国分胤通、相馬義胤、東重胤、足利義氏、小山朝政三浦義村、三浦胤義、長沼宗政、結城朝光など。

一方の関戸の大将軍は北条時房和田義盛

午尅(正午頃)、武蔵国二俣川で畠山重忠と遭遇。

重忠は19日に菅谷館を出発。

弟の長野重清は信濃国に、畠山重宗は奥州にいたため、従っていたのは次男・重秀と郎従の本田近常、榛沢成清ら134騎でした。

重忠は、陣を布いていた鶴ヶ峰の麓で、今朝方、嫡男の重保が殺され、討伐軍が攻めてきている事を聞いたのだと言います。

近常と成清は

「討手は幾千万騎かわかりません。

早く本拠地に退き、討手を待って合戦に及びましょう」

と主張しますが重忠は

「それはできない。

家を忘れ、親を忘れて戦うのが将の本義である。

重保が討たれた今、本拠地に退くということは有り得ない。

1200年(正治2年)、梶原景時寒川館を退いて、上洛する途中で滅ぼされた。

これは暫しの命を惜しんだようなもの。

また、以前より陰謀を企んでいたように疑われるようなもので、恥じを察すべきだ」

そこへ軍兵が襲撃してきました。

皆、先陣に命を懸け、後代にその名誉を残そうとします。

中でも安達景盛は主従七騎で進み、弓を取って鏑矢を手挟んでいます。

それを見た重忠は、

「景盛は弓馬の友。

大勢の中で抜き出てやって来る。

何で感動せずにいられようか・・・」

として、次男重秀に命を懸けて戦うよう命じます。

戦いは数回に及び、なかなか決着がつきませんでしたが、午後4時半頃、愛甲季隆の放った矢が重忠に命中。

その首は義時の本陣に届けられました。

その後、重秀と郎従は自刃。

こうして戦いは終わりました。


菅谷館跡
~埼玉県嵐山町:畠山館跡~

(横浜市旭区)


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

6月23日午後2時頃の、北条義時が鎌倉へ帰参。

北条時政が戦いの様子を尋ねると、

「重忠の弟や親類は他所へ赴いていた。

従っていたのは僅かに百騎ほど。

重忠が謀反を企てたというのは虚言である。

讒訴によって征伐されたのでは不便極まりない。

首実検で重忠を見たとき、涙を止めることができなかった」

と答え、時政は何も言えなかったそうです。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

午後6時頃になって、鎌倉で騒動。

三浦義村が、経師谷(材木座辺り)で榛谷重朝と嫡男・重季、次男・秀重を誅殺。

稲毛重成は大河戸三郎に討たれ、子の小澤重政は宇佐美与一が誅殺しています。

この度の戦の原因は、畠山重忠に恨みがある平賀朝雅が、重忠一族が謀反を企てていると牧の方に告げ口し、北条時政稲毛重成と示し合わせ、「鎌倉に騒動が起こった」と重忠へ報告したこと。

重忠は、それを聞いて鎌倉へ向かっていたのだそうです。

稲毛重成と畠山重忠は従兄弟。

重成は親族のよしみを捨てて重忠を黙したのだと『吾妻鏡』は伝えています。


畠山重忠像
(菅谷館址:嵐山町)

畠山重忠は、源頼朝の鎌倉入り、奥州征伐、上洛の際に先陣を任され「鎌倉武士の鑑」と呼ばれた武将。

鎌倉の屋敷も御所の南側という重要地に置かれていました。






☆ ☆ ☆ ☆ ☆

畠山重忠の乱


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